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「なぜ、千尋が両親を見分けることができたのか」という問い

 高畑は自らの映画を説明する際に「思いやり」「思い入れ」という言葉をよく使った。

 高畑自身が目指したのは「思いやり」の演出だった。場面全体を見渡せる「引き」や俯瞰のショットを多用し、主人公だけではなく、他の様々な登場人物の抱える事情や、感情の動きを明確に見せる。それによって、主人公の立ち位置を相対化し、「自分だけではなく、他人の立場を思いやれる」境地へと観客を導こうとする。「三千里」で、「母を求める主人公・マルコ」の傍らに、「母に裏切られたヒロイン・フィオリーナ」を置いたのは、その典型例だ。

©文藝春秋

 一方、高畑によれば、日本の多くのアニメーション映画は、観客を作品世界に巻き込むため、主人公だけに徹底的に「思い入れ」させる技法を発達させた。一見、観客と同じような凡人が非凡な力を発揮する。カメラを主人公のすぐ後ろにすえ、主人公が見ている光景をほぼそのまま観客が体験できるショットを多用する。観客は主人公と一体化し、きわめて主観的に世界を体験することになる――。

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 ここで高畑の言う「思い入れ」作品の典型例が、宮崎の代表作「千と千尋の神隠し」(2001年)であることは、高畑自身が明言している。無気力な少女・千尋は異世界に放り込まれるや、別人のように精力的に動き始め、大冒険をする。そして、最後は豚に変えられた父母を見分ける試練を課されるが、即座に「ここにはお父さんもお母さんもいない」と答え、「大当たりぃ!」と絶賛されるのだ。

 高畑は問う。「なぜ、千尋が両親を見分けることができたのか」と。その理由は、作中では一切明示されない。観客は千尋と共に冒険を繰り広げる内に、自然と「千尋(私)ならそれぐらい見分けられて当たり前」と思い込まされる。それは、観客から「自分自身を突き放して客観的に観察する」視点を奪うことに他ならない。

 宮崎自身、「千と千尋の神隠し」の制作中には「こんな絵コンテを描いたら、パクさん(高畑)に叱られる」とぼやき続けていたという。

宮崎は「自分の見たいものを作る」ことを続けざるを得ない

 多くの人々が現実世界で「自分の主観からだけしか世界を観察せず、他者の視点を思いやれず、善悪を単純に判断している」ことが、様々な社会的対立や戦争を助長している。高畑の価値基準に照らせば、宮崎の映画は、他人の立場を思いやれない『思い入れ人間』を増やし、現実社会をより愚かにすることに手を貸していることになりかねないのだ。

©getty

 宮崎は、高畑のような「理性の人」ではなく、「自らのイマジネーションをアニメによって具現化したい」という衝動に取り憑かれた人間だ。たとえ高畑から批判されようと、「自分の見たいものを作る」ことを続けざるを得ない。その一方で宮崎は、高畑の批判を決して無視できない。なぜなら、宮崎も高畑も幼少時に戦争というものを経験し、東映動画で本格的な労働組合活動を経験した人間だからだ。

 戦争は創作活動を含め、すべての生活の基盤を根絶やしにしてしまう――。そのことを腹の底から知っているだけに、高畑も宮崎も「創作が主で社会は従」という芸術至上主義的な価値観に与(くみ)することはできない。「自らの作品が社会にどんな影響を与えるか」ということを絶えず意識せざるを得ないのが、戦争を体験したクリエーターたちの「業」なのだ。

 そして、高畑と宮崎、共通の原点である「ホルス」は、当時の労働組合活動の理想である「団結による社会的矛盾の克服と、よりよい共同体の創造」をうたった作品だった。

 極論すれば、宮崎が自らの圧倒的なイマジネーションで観客に現実を忘れさせる作品を作り続けることは、そうした「青春の原点」への「裏切り」となりかねない。

 宮崎は、子供たちが「となりのトトロ」(1988年)にはまってビデオを繰り返し見ていることについて、「トトロなんて見せないで、子供は外で泥まみれになるまで遊ばせるべき」と繰り返し述べている。自らの作品が結果的に「子供と現実との接点」を奪っていることは、宮崎にとって身を切られるようなつらい思いだったのではないか。

 一方、高畑の代表作とされる「火垂るの墓」(1988年)は、多くの人々にとって「観るのがつらすぎて二度と見たくなくなる」ほど、現実の非情さ、残酷さを見せつける作品だ。

 商業的には「トトロ」の方が圧倒的な成功を収めているが、「現実社会に与える影響」という軸で見た時には、両者の価値判断は逆転する。高畑は自作の興行成績にはほとんど頓着しなかった。彼にとって最も重要なのは、作品の「表現としての新しさ」と「社会的な文脈から見た時の正しさ」だった。