「毛虫のボロ」は「高畑的構造」の作品だ
3月からジブリ美術館で公開中の宮崎の最新短編アニメ「毛虫のボロ」もまた、前半は宮崎らしい「思い入れ」の映画だ。作品の開始後しばらくは一貫して、生まれたばかりの毛虫「ボロ」から見た世界を描き続ける。完全な「主人公目線」の作品だ。毛虫の天敵であるカリウドバチは生物ではなく、ターミネーターのような殺戮ロボットとして描かれる。高畑ならば必ず入れたであろう「ハチにも生き延びねばならない事情がある」という視点はどこにもない。
だけど、作品の後半はがらりと雰囲気が変わる。ボロは自らのエサとなる草「ボロギク」から離れ、人間の女の子のスカートにひっついて家まで運ばれてしまう。ここで視点は「人間から見た毛虫」というなじみ深いものに切り替わる。ボロは女の子の母親に見つけられ、葉っぱに載せられてベランダから放り出される。大抵の毛虫にとって、その先に待ち受けるのは「飢え死に」だ。毛虫のエサとなる植物は決まっていて、それ以外のところに落ちても自力で移動する力はないからだ。
しかし、ボロは幸運にも、たまたま生えていた別のボロギクの上に落ちる。花の上で跳ね回って喜ぶボロ。
観客はほっとすると同時に、ボロが生き延びられたのは単なる僥倖に過ぎないこと、ほとんどの毛虫を待っているのは過酷な運命であることに思いを馳せざるを得ない。「毛虫の視点」と「人間の視点」を往復することで、ボロの置かれた客観的な立ち位置を強く意識させる「高畑的」な作品構造になっているのだ。
そして、宮崎が制作中の長編新作のタイトルは「君たちはどう生きるか」。児童文学者の吉野源三郎が1937年、当時の少年たちに向けて書いた教養小説と同名のタイトルだ。この作品自体を原作とするわけではなく、劇中で主人公が読んで大きな影響を受けるのだという。
宮崎はこの作品の何に心を打たれたのか。それは私の想像では「偉大な人間とはどんな人か――ナポレオンの一生について――」という一節だと思われる。
ここでは、ナポレオンの活動力、実行力について惜しみない賛辞が送られると共に、「ナポレオンは、そのすばらしい活動力で、いったい何をなしとげたのか」という問いかけがされる。ナポレオンは前半生では封建時代に代わる新時代建設のために役立ち、輝かしい成功を収めたが、皇帝になると、「権力のために権力をふるう」ようになり、結局は多くの人々を苦しめた。作中で主人公の導き手である「おじさん」はこう断じる。「英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ」。
宮崎の胸中で生き続ける高畑からの、冷徹な批判のまなざし
宮崎は、そのすさまじい想像力と活動力によって、世界中の多くの人々を自作のとりこにしてきた。しかし、それは社会全体にとって真にポジティブな行為だったのだろうか。人々の目を現実から背けさせ、ファンタジーの世界に逃避させる効果しか持ち得なかったのではないか――。
宮崎自身は今、自らの生涯を振り返って、そんな悔恨の念に囚われているのではないだろうか。そして、その根っこには、今も宮崎の胸中で生き続ける高畑からの、冷徹な批判のまなざしがある。
宮崎の「君たちはどう生きるか」は、そんな高畑のまなざしに対する、宮崎からの渾身の、そして最後の「答え」になるのではないか。「観る者に現実の厳しさを認識させつつ、それに立ち向かう勇気を与えられる映画」を目指すのではないか。
私にはそう思えてならない。
(敬称略)