元読売新聞記者の清武英利氏は、読売ジャイアンツの球団代表を務めた経歴を持つ。在任中、球団オーナーである読売新聞グループ本社代表取締役の渡邉恒雄氏と対峙した過去を、清武氏が回想する。
「死ぬのによい日だ」
奔放不羈(ほんぽうふき)な社会部のスター記者だった本田靖春が、正力松太郎社主時代の読売新聞を飛び出したのは1971年、37歳のときである。それからも彼はずっとおんぼろアパート暮らしで「由緒正しい貧乏人」を自称したが、さばさばした気分で、ただの一瞬も自分の取った行動を悔いたことがなかった、と書いている。
私も東京・深川に近い賃貸住宅に暮らしていたが、2011年11月のそのときすでに61歳で、本田ほどの太い肝は持ち合わせていなかったので、さばさばした気分どころか、「今日は死ぬのにとてもよい日だ」といった大げさな言葉を呟きながら日々を過ごしていた。
「死ぬのによい日だ」というのはもともとネイティブ・アメリカンの死生観を表現した言葉らしいが、私が相手にしようとしたのは、「最後の独裁者」を自称する渡邉恒雄である。ネイティブ・アメリカンの言葉の断片や、岡倉天心の歌った「奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」といった、ことさら勇ましい一節を口にして自らを鼓舞しなければ一歩先へ進むことができなかったのだ。
──なぜ、この権力者をいさめることができないのか。
かつては読売本社でも、渡邉の意向に従わない部門があった。読売論説委員だった前澤猛(たけし)によると、それは論説委員会だったという。
前澤は本田の二つ年上の元社会部員で、社会部の司法担当主任の後、論説委員や新聞監査委員会幹事を務めた。私もこの大先輩に一度話を聞いたことがあるが、背筋の伸びた知的な硬骨漢である。
1978年に江川卓投手の獲得をめぐって、新人ドラフト制度の間隙を突いた「空白の一日事件」が起きる。ドラフト会議前日に、巨人が江川とドラフト外入団による電撃的な入団契約を結んだのだ。