長崎はいくつもの小高い山に囲まれた町です。私の家は金比羅山という山の陰に当たる場所であったために、爆心地から2・9キロでしたが、ケガや火傷はありませんでした。勤めに出ていた父も含めて家族は全員無事でした。
その金比羅山の山道には、爆心地から火を避け、山越えしてアリの行列のように降りてくる人たち。誰もが裸同然で深い傷や火傷を負っていました。髪の毛は血で固まり角のようになった、性別さえわからない人の列を母は見たのです。
家の裏には井戸があり、多くの人が水を求めてきました。母は私をおんぶし、井戸の水でその人たちの傷口を洗い、かねてから用意していた煮沸した古布を包帯代わりにして手当てしながら、いったい何が起こったのかわかっていなかったのです。
私の家の隣が建物疎開で空き地になっていて、そこに毎日おびただしい数の遺体がゴミ車で運ばれ、焼かれました。その数についても「今日は多かった」「少なかった」と感覚が麻痺して、何も感じないようになっていました。誰も放射能汚染のことも知らず、防護服を着用しなければ近づいてはいけないようなその空き地で子どもたちは遊び回り、大人たちは野菜を育てていました。
内田 それはわかるような気がします。ウクライナやガザのニュース映像を見ていると、悲惨な光景の隣で日常生活が営まれていますよね。人間はどうしても目の前の生活があるから、悲しいとか気の毒だという気持ちにどこかで鈍感にならないと生きていけないのではないでしょうか。
インパクトがなくても話し続けていく
和田 70年代末から夫の転勤でアメリカで過ごし、帰国後に居を構えた大田区に大友会という被爆者の会があるらしいと聞き、入ってみようかなと思ったんです。私は41歳で会では若手。やることは新聞や証言集を作るお手伝いでした。被爆者のご自宅で体験談を伺っていると、ご家族が帰ってきた途端に、「もう話せない。帰ってください」と追い立てられることがありました。証言をしながらある場面になると泣いてしまってそれ以上話せなくなる方、話し終わってから寝込んでしまう方もいました。
内田 どれだけの重い扉をこじ開けて、その方が証言されているかということですね。
和田 そうやって証言を聞けば聞くほど、このままではいけないという思いが強くなりました。でも私は、自分の記憶はないから母から聞いた話しかできない。
例えば、「あの日は地獄だった」と証言する方がいらっしゃる。ただ死にゆくしかない人たちをグジュッと踏み越えて、我が子を探しに行ったというんですね。そういう凄絶な証言に比べると、私の話はインパクトがない。
内田 コンプレックスがあるのですか。

