小さい頃、海が怖かった。私は泳げないので海に入るのが怖かった。泳げない私にとって海は広すぎる。いつのまにか遠くへさらっていく波も、あてもなく漂うくらげも、足にからまる藻も怖い。自分が魚に生まれなくてよかったと思っていた。食べるほうでよかった。

 魚に生まれなくてよかったと思ったのは、小さい頃読んだ『スイミー』の影響もある。大きな海の中で暮らしていた小さい魚の兄弟が、ある日突然巨大マグロに飲み込まれてしまう。そこで一匹だけ難を逃れたのがスイミーだった。カラス貝よりも真っ黒で、泳ぐのは誰よりも早い。だからマグロの襲来から逃げることができた。私はマグロに一飲みにされる側だ。海は広い。広くて怖い。

『スイミー』(福音館書店)とねこ ©西澤千央

野球の神様はいつもベイスターズに試練を与える

 去年3位ながらCSを勝ち上がり、19年ぶりに日本シリーズに進出した。ベイスターズは一躍注目されるチームになった。スポーツニュースで特集を組まれた。解説者たちが順位予想の上のほうにベイスターズのプレートを貼り付けた。OBたちがOBを名乗り始めた。チケットはますます取りづらくなった。

ADVERTISEMENT

 毎年毎年目をつむりながらやり過ごしていた交流戦も、もしかしたら、今年は、いけるのかもしれないと少しだけ思っていた。だけど野球の神様はベイスターズに試練を与えずにはいられない性分のようだ。6月初頭、その懐の深さで若いチームを支えていたロペスが右太もも裏痛で登録を抹消された。誰もが打てないときにひとりだけ、ポコンと事も無げにホームランを打つ梶谷が腰痛を再発していなくなった。去年ショートとしてフル出場した倉本が、たくさんの素敵な裏切りをもたらしたソトが、次々に一軍から姿を消した。そして、「4番レフト筒香」というアナウンスが聞かれなくなったとき、嫌な記憶と予感と悟りがいっぺんにやってきた。

パシフィックの海でさまよった宮﨑敏郎

 海は広くて怖い。海に残されたのは一軍経験の浅い小さな青い魚たち。ソフトバンクという名の黒くて巨大なシャチは容赦なく襲いかかる。鋭い歯をギリギリいわせながらセイブイタチザメが突っ込んでくる。平和なんてとんでもない、パシフィックの海は荒れ狂っていた。どうやって戦えばいいの? ロペスも梶谷も筒香もいないのに。この中で唯一安定した成績を残しているのは宮﨑だけだ。昨年首位打者の宮﨑。控えめでおっとりして優しい宮﨑。闘志をむき出しにしたり、ゴリゴリのキャプテンシーをアピールするタイプではない宮﨑。主軸の離脱からひとり逃れた宮﨑は、パシフィックの海でさまよっているように見えた。

「スイミーはおよいだ。くらいうみのそこを。こわかった、さびしかった、とてもかなしかった」

 天才と言われている。梶谷がそう言うんなら間違いない。独特のバッティングフォームと、軸のブレないスイング。内角の難しそうなボールをひょいっとホームランにしたりする。ロペスを避けても筒香を避けても、宮﨑がいる。でも今は、宮﨑しか、いない。

交流戦打率2位の.406をマークした宮﨑敏郎 ©文藝春秋

 孤独のなかでスイミーは色々なものを見る。「すばらしいものがいっぱいあった。にじいろのゼリーのようなくらげ、すいちゅうブルドーザーみたいないせえび、みたこともないさかなたち……」。スイミーは徐々に元気を取り戻していく。そして岩陰にひっそりと隠れていた兄弟たちを見つけてこう言うのだ。「でてこいよ、みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ!」