個人の挑戦とチームの勝利と
大抵の選手は何らか驚きの反応を示すものだ。何しろ、それはほとんど前例のない作戦なのだ。だが大谷は黙って頷いただけで、すべてを察しているようだった。だから栗山はあえて冗談めかして言った。
「翔平、先頭でホームラン打って、ゆっくり歩いて帰ってきて、完封すれば1対0で勝つから」
それは独走するホークスを止めるべく、栗山が実際に望んでいた理想のシナリオではあったが、誰かに伝えれば、おとぎ話のようだと笑われることも分かっていたし、大谷にとってはとてつもなく重いミッションであった。冗談めかした口調になったのはそのためだったかもしれない。だが、大谷はやはり無言のうちに受け止めると、まるで宝の地図を見つけた少年のように好奇心に満ちた顔で笑ったのだ。それ、面白いですね。栗山には彼の眼がそう言っているように見えた。
栗山の眼前で、ホームランを打った大谷がベースを回っていた。一塁をまわり二塁へ向かう途中でスタンドインを確認した彼は、そこで走る速度を極端に落とした。呼吸を整えるようなゆっくりとしたペースに変えた。それは明らかに1回裏のマウンドに向けた準備であり、先頭打者ホームランを放ってわずか数秒後に大谷はもう先発ピッチャーの顔になっていたのだ。栗山の驚きはそこに向けられていた。単にホームランを打ったという事象ではなく、21歳の青年が指揮官の意図を無言のうちに察し、絵空事のようなシナリオを本気で具現化しようとしていることへの衝撃であった。
大谷が先制のホームを踏んだ頃、栗山の胸には重圧が生まれていた。このゲームは何があっても勝たなければならない。勝たせなければならない。二刀流という個人の挑戦とチームの勝利を結びつけなければならない。
それは大谷が入団して以降、栗山がずっと追い求めてきた命題であった。(文中敬称略)
※本記事の全文(約10000字)は、「文藝春秋」2025年3月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(鈴木忠平「No time for doubt 第2回」)。
全文では、大谷と同期入団の鍵谷陽平の想い、大谷を追い続けたスポーツ新聞記者が覚えた高揚感、当時のソフトバンクホークス監督・工藤公康の大谷への評価などが描かれています。「文藝春秋PLUS」では、本連載を初回からお読みいただけます。

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