ダイムラーとの破談

 四半世紀以上も前の話だから、覚えていない人も多いだろう。1999年の春、日産が資本提携の本命としていたのはルノーではなく、独ダイムラー・クライスラー(現メルセデス・ベンツグループ、以下ダイムラー)だった。

日産自動車の歩み ©文藝春秋

 当時、ダイムラーのCEO(最高経営責任者)は「ニュートロン・ユルゲン」と呼ばれたユルゲン・シュレンプ氏だった。米ゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェルチCEOが「世界シェア1位以外の事業はいらない」と大リストラを敢行し、「ニュートロン・ジャック」と呼ばれたことになぞらえた異名である。

 不採算事業を叩き切る一方で、シュレンプ氏は本業の自動車事業に資本を集中投下した。その象徴が、当時のダイムラー・ベンツが1998年に実現した米クライスラーとの合併だ(これによりダイムラー・クライスラーが誕生)。「ビッグ・スリー」と呼ばれた米三大自動車メーカーの一角であるクライスラーとの合併により、高級車のベンツを作る中規模メーカーだったダイムラーは年間の販売台数を合併前の100万台から400万台に乗せ、世界5位に浮上した。

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 クライスラーを仕留めたシュレンプ氏が次に狙ったのが日産である。バブル景気の崩壊後、急激に業績を悪化させていた日産に出資を申し出た。1999年3月、ダイムラーは出資に向け、日産のデューディリ(資産査定)に入った。

 その頃、筆者は日本経済新聞の欧州総局(ロンドン)で企業取材を担当しており、その日は「ジュネーブ・モーターショー」の取材でレマン湖のほとりの国際展示場にいた。日産との交渉の進捗を聞くためにダイムラーのブースに張り付いていると、突然、携帯電話が鳴った。東京のデスクからだ。

「ダイムラーが日産との交渉を打ち切ったぞ。すぐに両社の役員のコメントを取れ!」

「え、出資決定じゃなくて?」

「破談だよ、破談」

 筆者は広大な国際展示場を走り回った。綿密なデューディリの結果、ダイムラーは「日産の再生は困難」と判断し、手を引いた。リストラのスポンサーになるはずだったダイムラーに見捨てられた日産はどうなるのか。当時は産業革新投資機構(JIC)のような官製ファンドもなく、個別の企業に公的資金を注ぎ込む方法はない。

(いよいよ倒産か?)

 プレスセンターで原稿を書きながら、そんなことを考えた。離れた場所にあるプレスセンターと展示場を行ったり来たりした筆者は、汗をレマン湖からの風で冷やし、宿に戻ると40度の高熱が出た。

※本記事の全文(約7000字)は「文藝春秋」2025年4月号と「文藝春秋PLUS」に掲載されています(大西康之「日産・ホンダはなぜ決裂したのか? 自動車野郎がいない日産エリート」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。

ダイムラーとの破談
パリに飛べ
ファーストクラスで捕まえろ
「カーガイ」がいない
日産の体質は一日にしてならず
何がしたいのかはっきりしない


■裏読み業界地図
第1回 日本製鉄に立ちはだかる鉄鋼王カーネギーの栄光
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