最初に入った東京都内の更生保護施設(出院者らが寝泊まりする宿舎)では、すぐに「少年A」であることがバレ、別の施設への転居を迫られた。このとき、保護観察所はその後の転居先からアルバイト先の選定まで、すべて手配している。
仮退院から2カ月がすぎると、Aは東京を離れて、身元引受人となった里親の元で生活をはじめる。そして保護観察の期間が終わるまで、この里親夫婦が住む一軒家で、“息子”として暮らした。夫婦の面倒見は良く、この夫婦を通して、近所づきあいもしている。
ただ、仮退院という助走期間を、とりたててトラブルもなくすごすと、Aを引き留めるものは、もう何もなかった。2005年1月、彼は正式に退院する。当初の予定通り、本退院へと至ったわけだ。
退院後の少年A
彼はプレス工として働き、職場の近くにアパートを借りて一人暮らしを始める。晴れて自由の身になることは、国が更生の責務を終えたことを意味した。
だが、それでもAへのケアは途絶えなかった。里親は随時Aと連絡を取って相談に乗ったし、元付添人を中心とする弁護士も無償で支援にかかわるなど、支援態勢は整えられていた。周囲は彼をひとり社会に放りだし、見捨てたわけではなかったのだ。
ところが、Aは本退院後、わずか半年でプレス工を辞め、行方をくらましてしまう。
たとえ整えられた態勢でも、中心(ターゲット)が消えされば、支援ができようはずもない。といっても、Aは正式に社会復帰を認められたのだから、法律的には何ら問題がないのだけれど。
その後のAは、どうしたか。
彼はカプセルホテル暮らしをへて、2005年12月に建設会社の契約社員になると、社員寮に住みながら、主に解体工事をしていた。
新しい生活をはじめた数年は生活が安定したが、意外な外圧が彼を襲う。2008年のリーマン・ショックだ。社員の契約更新をしない「雇い止め」が横行し、Aも2009年6月に契約を打ち切られる。その年の9月に溶接工になるが、やがてその職も辞めたようだ。
そして、彼は2015年6月、みずからの手記『絶歌』を出版し、世間に衝撃を与える――。
以上が、Aが社会に復帰して以後の流れだ。
こうした経歴は、彼が『絶歌』でも明らかにしているので、あえて触れた。その経緯をみればわかるように、国も更生関係者も、Aが一般社会で生活できるように、正式退院後もサポートをつづける環境を整えていた。しかし、Aはみずからその環境を放棄した。
「僕は、これまでずっと誰かや何かに管理されてきた。逮捕されるまでは、親や学校や地域社会に。逮捕後は国家権力に。社会復帰後は、Yさん〈筆者注・里親〉を始めとするサポートチームのメンバーに」
『絶歌』でAはそう記している。国のサポートは、Aにとっては「管理」だったのだ。
ただ、くりかえすが、Aは手記を出版したものの、再犯をしたわけではない(2025年5月現在)。彼を社会復帰させた国に責任がある、と一概にはいえないだろう。
過去の少年事件の歴史をみれば、少年院を退院後、すぐに再犯をしてしまった元少年もいる。Aの更生にあたって、国がもっとも怖れていたのは、むしろそちらのケースだろう。
人を殺めた少年が、社会復帰した後に、再び人を殺める。そうした再犯のケースがある。
