「初めて会った少年Aは華奢な少年というだけの印象だった」

「萎びた野菜のようだった」

 これは、少年審判を担当した井垣康弘裁判官が見たAの姿だ。

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 少年院にいたAとかかわった複数の更生関係者から私は話を聞いたが、Aのを怪物というよりも、情緒不安定な「子供」ととらえる人が多い。

太田光「ダサダサじゃない、こんなの」

 Aは『絶歌』の出版とほぼ同時期の2015年にウェブサイトを開設し、自らが描いたグロテスクなイラストをアップしている(既に閉鎖)。

 意外なことに、それを見て鋭い批評をしたのは、爆笑問題・太田光氏だった。

「自分が特別だと思っているんだろ。この表現がいかに平凡かってことがわかってないんだよね。ダサダサじゃない、こんなの」

 下手な評論家よりも、市井の教養人のほうが、ずっと本質を突いていたといっていい。

「非社会」の子供

 それでも、Aの行動そのものが、常に私たちを動揺させているのは事実だ。1997年の事件もそうだし、2015年の『絶歌』出版もそうだ。

2015年に出版された少年Aの手記『絶歌』(画像:Amazonより)

 その理由は、どこにあるのか。

 Aの行動が、「反社会」型ではなく「非社会」型であることが大きいだろう。

 たとえば、昔ながらのヤンキーや不良少年の行動パターンは、じつは私たち一般人でも、想像がつく。ツッパリ。チンピラ。ヤクザ。彼らの行為がどんなに粗暴でも、「反社会」という機軸で、社会と結びついているからだ。更生関係者や専門家ではない一般人にとって、「反社会」型の犯罪については、その思考回路じたいには納得がいくのだ。

 ところが、「非社会」型の行動は、社会そのものとのつながりが切れている。社会や世間、他人への共感性が乏しい「非社会」型の人間は、私たちの想像がおよばない思考回路で、とんでもないことをしでかす。

 まさか、そんなことしないよな――。

 私たちが、思いもよらぬような突飛な行動に出てしまう。

 Aがおこした事件も、手記の出版も、そもそも予想だにしなかったから、私たちは度肝を抜かれたのだ。

 Aは再犯こそしていないけれど、更生していない。そんな疑念が払拭できないのは、更生には私たちの生きる社会とつながりを保ち、そこに根ざした生活をすることが不可欠だと私たちが考えているからだろう。

 だからこそ、自己顕示欲のために手記を出版する、というようなAの「非社会」的な行動に、私たちは決定的なズレを感じ、得体のしれなさを嗅ぎとるのだ。

 やはりAは、まだ何かが欠落しているのではないか――と。

 もし、Aが自分の心情をノートに書き付け、胸の苦しみを吐き出すだけなら、それは彼の自由だ。あえて世間に公表しようとする、その行為が「非社会」的なのだ。

 大事なことが、ひとつある。