こうした突飛な行動をするのは、Aの想像力や才気があふれるからでも、彼が怪物だからでもない。
それは、むしろ、彼の想像力の乏しさが引き起こしているということだ。
自分の行動が、遺族をどれだけ傷つけるか。更生に携わった関係者をどれだけ裏切るか。そして、A本人の両親や兄弟をどれだけ苦しめるか。その振る舞いがいかに残酷なものであるかを理解する想像力を、彼は欠いていた。
ちなみに、こうした「非社会」的なことが平気でできる存在は、私たちの社会にもいる。
それは、子供だ。
子供は、「社会」化されていないからこそ、なによりも自己愛を優先する。そして、他者の痛みを実感する共感力も育っていないから、たわむれに虫を殺すような残酷なことができる。
長らく怪物あつかいされたAだが、じつは怪物というよりも、大人になりきれない子供、といったほうが実像に近いはずだ。
消えた少年A 不惑のA
大人になることは、必ずしも成熟することではない。Aが手記を出版したとき、彼の社会復帰は、本人が想像した以上に、くすぶり、つらいものだったのかもしれない。少なくとも彼が夢想する世界と、目の前にある現実とのギャップは大きかったのだろう。
だが、自分の非才や非力、そして取り巻く環境を受け入れ、凡庸を生きることも、大人になるための方策だ。
じっさい、一般社会に生きる成人の多くは、そうやって大人を演じている。
結局、大人と少年の境界など、みずから乗り越えていくしかないのだ。
それなのにAは、成人Aになること、あるいは凡人Aとして、人波にまぎれることを受け入れられなかった。
社会は成人Aが目立つことなく暮らすことを望んでいたのに、肝心のA自身が、手記で「元少年A」を自称し、過去の残像にすがりついてしまった。
Aが本当に更生したのかは、だれにもわからない。だが、少なくとも、A本人が、少年Aの幻影にこだわる時期は、とうに去っている。
彼もすでに42歳(2025年5月現在)。今、私たちと同じ社会に生きているのは、中年Aにすぎない。月日はうつろい、私たちは新しい時代を生きている。
人波にまぎれて、目立つことなく、凡庸を生きること。
これはAに科せられた罰の一部であり、受け入れるべき代償でもある。
おかした罪に比べれば、それはけっして重い罰とはいえないだろう。
ただ、それでも。
私たちの社会が、他者との共生を前提に成熟するならば、Aの存在をみだりに拒絶するわけにはいかないのだろう。事件から時がたち、今や問われているのは、Aのありかたではない。私たちの社会のありかたへと局面が転じている。
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