幼い子どもを残していく母親がどんなに無念か、それが想像できてしまうのは、自分にも母性の遺伝子があるからなのかもと思ったら、それ以上に重要なことなどあるはずがないと思考停止してしまい、いよいよ何も浮かばなくなっていた。
だいたいがどうせ死ぬんだし、と思うと欲望は消え去るもの。“死ぬまでにやりたいこと”と、“死ぬと決まってからやっておきたいこと”は違うのだ。それこそ子どもでもいなければ、本気でやりたいことなどない。それが物の道理と思い知る。
この時ほど、子どもがいない現実を虚しいと感じたことはなかった。思い残すことがない空疎感をひしひし感じた。そして今まで考えたこともなかった、自分の子孫を残せないことの意味を知る。誰かに何かを残すことのできない孤独も。
だから、子どもを持たずにペットを飼っている人の“あるある”で、資産は動物愛護に寄付? さもなければ養子を取る? 大した資産があるわけでもないのに、そんなことが頭をよぎるのだった。
吉永小百合さんが繰り返した「産みたくない理由」
しかしひとたび現実に戻ると、急増するニートやひきこもりの問題がにわかに目に飛び込んできて、今の時代に子どもを持つことの難しさやリスクが急に頭をもたげてくる。
そこでふと蘇ったのが、吉永小百合さんが、1973年の結婚前後、結婚しても子どもを産まない、産みたくない理由を様々な場面で語っていたこと。子どもは好きだが、自分には育てる自信がないと。自分にも責任が持てないのにとても……と。
世間では子はカスガイと言うけれど、子どもで結びつく夫婦関係はいやであると。少なくとも当時、自ら「子どもを作らない」という宣言をする人は他にいなかった。まさに納得の上で、論理的に子どもを産まなかった人なのだ。
そのことが当時まだ10代だった自分の中にもハッキリと刻みつけられていた。そういう考え方があること、しかも吉永さんの発言だったことは、強烈なインパクトを持ったから。
