秀吉の母は“やんちゃな女性”?
「秀吉の素性を聞いてみると、祖父母は朝廷で萩の中納言に仕えていたという。この貴族は、秀吉の母が3歳の秋に、讒言によって尾張の飛保村雲に流された。(略)秀吉の母は幼くして京に上り、朝廷に3年仕えて帰国し、程なくして子供を産んだ。それが秀吉である。(略)王族でないのならば、どうして秀吉のような英雄が生まれようか」
この萩の中納言なる人物は実在が確認できません。秀吉の祖父母や母が朝廷に仕えていた、というのもまず考えられません。関白就任に際して、秀吉は、自らの出自を飾り立てる必要がありました。そこで貴人とのつながりを捏造したのです。したがって、『関白任官記』の出生譚は信じるに足りない、というのが、これまでの通説でした。
しかし、少なくとも、大村由己は秀吉から直接、その前半生を聞いているわけです。もともと家系を捏造するための作業ですから、貴人云々はでたらめとしても、生地まであてずっぽうに示すだろうか。河内さんは「飛保村雲」の場所はいまのところ確定していないが、と留保しつつ、秀吉の生地については、江戸時代に成立した『太閤素生記』よりも、同時代の史料である『関白任官記』を優先すべきではないか、と記しています。
実は現在の江南市に飛保、そして村久野という地名があります。江南市は愛知県の北部、岐阜県との県境に近いエリアです。木曾川の南です。この村久野が「飛保村雲」だとすると、この地にはかつて大乗院と呼ばれた70にも及ぶ塔頭を抱える大伽藍がありました。のちに音楽寺と名をあらため、いまでは紫陽花と円空仏で知られるお寺です。この寺院都市も秀吉の出生地の可能性があります。父親は何らかの理由で名前を出せない人だったのかもしれません。秀吉の母は、やんちゃな女性だった可能性もあります。のちに秀吉母の子と称する人物が現れ、秀吉が母に問うてその人物を処刑したことまであるのです。秀吉の父は木下弥右衛門ではない可能性もあります。誰かわからないか、あるいは僧侶ということもあり得るのです。最終的な結論はさらなる研究の進展を待つとして、少なくとも秀吉出生の候補地として、江南市村久野は検討に値するのではないでしょうか。
※本記事の全文(約1万2000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2025年10月号に掲載されています(磯田道史「豊臣兄弟の謎」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
・いつ生まれたのか?
・父親は誰か?
・秀吉最初の奉公先はただの豪族ではない
・木下姓は松下にあやかった?
・秀吉より待遇がよかった秀長
・「秀長」への改名に込めた秀吉の戦略

