天下人と最良の補佐役はどこで生まれ、どのように育ったのか? 「豊臣兄弟」の出生に関して浮上した説を、歴史学者・磯田道史が紹介する。
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でたらめと言われた歴史資料
最新研究のなかであらためて浮上してきた問題があります。秀吉の出生地です。
ここまで見てきたように、秀吉の生まれたところは尾張の中中村がほぼ定説とされてきました。ところが、河内将芳さんの『図説 豊臣秀長』では、もうひとつの候補地として、同じ尾張国ですが、「飛保村雲」説を提唱しています。
実はその地名は『関白任官記』という文献に出てくるのですが、これから述べる史料の性質上、あまり重視されてきませんでした。では、『関白任官記』とは何か。
天正13(1585)年、秀吉は関白に就任します。このとき、秀吉が、自らが関白にふさわしい人間であることを示すために作らせたのが、『関白任官記』です。書いたのは大村由己という、僧侶出身の秀吉側近で、京の相国寺でも修行をした知識人です。大村は秀吉の祐筆(文書作成や記録などを担当する秘書役)を務めながら、天下人となっていく秀吉のPRを担っていきます。まさに「秀吉広告代理店」です。その代表作が、天正8(1580)年の三木合戦から天正18(1590)年の小田原征伐までの秀吉の戦いを描いた全12巻からなる『天正記』で、そのなかに『関白任官記』も含まれています。
問題は、この『関白任官記』では、明確な意図を持って、はっきり事実に反すると思われる記述がなされていることです。こちらも磯田訳を参照しながら、検証していきましょう。
