父と酌み交わした「最後の酒」

 私は2日の担当だったが、昼間寝ている親父は夜になると元気で、深夜2時ごろ、「おいおい、酒飲もうぜ。ブランデー注いで来い」と起こされ、嬉しそうに受け取ったグラスをさすがに飲み干しはしなかったが、雰囲気と香りを愛でたかったのだと思う。

 丑三つ時のバータイムの会話は、伸晃、お前の幼稚園の時の運動会に参加したよな、であるとか、お前が大学生の時連れてきたガールフレンドの名前はなんだったっけか、とか、パラオで突いた鯛はデカかったなぁ、などなど。脈絡は無かったし、ハードボイルドでもなかったが、それなりにしみじみとした良いひと時を過ごす事ができた。そしてこれが親父と酌み交わした最後の酒となってしまった。

 嫁や孫たちも代わる代わる顔を見せ、穏やかに過ごしたその翌週、父はラーメンをどんぶり1杯食べて腹を下し、それがきっかけという事もなかろうが、その頃からめっきり弱っていったように思う。日中はアイマスクを装着しずっと寝ており、会いに行っても話ができない事が殆どになった。入院先から母が見舞いに来ても喜ばず、殊更に壁を向いて寝ていたのも体調の悪さのなせる事だったと思う。

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まだ元気だった頃の両親の姿 ©getty

 1月11日には、腹膜に転移した癌の症状を抑えていた鎮痛剤の効果が薄れてきたせいか強い痛みを訴え、もともと痛みには弱いと言うこともあり、何とかしてくれ、と怒鳴られ、縋られ、何もしてあげられない無力感に私の方が泣きたい思いをした。それでも、「屋上から突き落としてくれ」と請われたと言う良純よりは心情的に遥かにましだっただろう。見るに見兼ねて鎮痛剤の投与を増やして貰ったせいか、20日過ぎには呼びかければ一瞬薄目を開けるものの反応は無く、身体はここにあるものの、魂が居なくなってしまったようで心許ない気持ちで寝姿を見守った。

「早くしろ、バカっ!!」

 25日からは固形物を受け付けなくなった。しかし29日に再び見舞いに来た母が、「お父様は耳の形が良いからまた健康になりますよ」と妙に自信を持って断言したのが心のよすがになったのと、又、この日は母が入院先に戻った後、父が目を覚まし、私の妻に、「顔に雨の様に水をかけろ」と命じ妻が戸惑っていると、往年の迫力で、「早くしろ、バカっ!!」と怒鳴ったりしたと言うので私も嬉しくなり、かねての予定通り淡路島に出発しようと決意した。

 その旨を父に伝えるとうんうん、と頷き、手をバイバイ、なのか、あっちへ行け、なのかわからないがひらひらと振ったので、イザナギイザナミの創造神話の話も聞かせてもらう予定なので、土産話を楽しみにしていてね、と手を振り返したのが終の別れとなってしまった。

次の記事に続く 体重90→63キロに激減、痛みや苦しみから解放された死に顔は穏やかそのもの…父・石原慎太郎の死去→長男・石原伸晃(68)が通夜の日に見た「不思議な夢」とは

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