「四兄弟交代制での通夜の寝ずの番。旅先からの帰京に続く弔問客の応対、様々な手配で疲れ果て、とびきり長い蝋燭は当分消えまい、と安心してうとうとと居眠ってしまって見た夢の舞台はネパールだった」

 2022年2月1日に父・石原慎太郎氏を失った石原伸晃さん。通夜の晩、疲れ切った伸晃さんが見た「不思議な夢」とは……。石原慎太郎氏を父に持つ四兄弟(石原伸晃・良純・宏高・延啓)が、それぞれの視点から家族の記憶・想い出を綴ったエッセイ集『石原家の兄弟』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

故・石原慎太郎氏 ©︎文藝春秋

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痛みや苦しみから解放された父の姿

 淡路島から羽田空港、実家に戻ると自宅前にはマスコミ数社が待ち構えており、物々しい雰囲気に包まれていた。最期に間に合い、父を看取ってくれた延啓によると、苦しそうだった息が徐々に楽になり、そのまま眠るように息を引き取ったよ、との事。

 父の死に顔は穏やかで、一時期90キロ以上あった体重が63キロ、とすっかり痩せてしまってはいたものの、痛みや苦しみから解放された姿はひっそりと静謐だった。

 思えば2020年1月20日に膀胱癌、膵臓癌の所見あり、と診断されてから丸2年。父は諦める事なくとても頑張ったと思う。脳梗塞の後遺症も残る中、大好きな船にも乗ったし、旅行にも出かけた。思うに任せない、と苛つき乍ら絵も描いたし、不自由になった手でワープロを叩いて本も執筆した。最後まで駆けて駆けて力尽きた父の亡なき骸がらはとても満足して安らいでいるように見受けられた。

 感慨深い対面はしかしほんのいっときのことで、現実が怒濤の如く押し寄せ、案件が山積み。コロナ下であったが故に取捨選択の幅が狭められ、難しい決断を迫られた。

 幸いな事に私達四兄弟はそれぞれ得意分野が異なり、各自が最大限の努力をする事で諸問題は一つずつ解決、処理できたのではないかと思う。父や母の看病や最期の局面に際し、兄弟が四人いる事の有り難さ、心強さを改めて感じた。父にしてみても、○番目に言ってみたらダメだったが、△番目はやってくれた、×番目の愚痴を◎番目に言ったら気が晴れた、等、バリエーション豊かで気分が随分と紛れたのではなかったろうか。

 物理的に人数が多いのもメリットで、入院した時も、「俺ほど家族が見舞いに来る患者はいない、と看護師に言われたよ」と自慢すること頻々だった。それぞれの四人の妻や七人の孫達も多忙の中、大いに協力してくれた。