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無論父がこうして過ごせたのは家族以上に助けてくださった方々のお陰様で、この方達のお力添えが無ければ、父の最期は全然違ったものになっていただろう。同じく、父が戦後の新しい価値観の創造者として世に出、そして走り続ける事が出来たのも応援して下さった皆さんのご厚意の賜物以外の何ものでもない。改めて、私からも我儘な父がお世話になったお礼を申し上げたい。
父は表立っては余り感謝、と言う言葉は口にしなかったが、毎朝仏壇の前に深々と額突き法華経を読誦する姿は正に感謝の念を体現していた。この心持ち故に安らかに召されたのだと息子としては信じたい。
寝ずの番
さて四兄弟交代制での通夜の寝ずの番。旅先からの帰京に続く弔問客の応対、様々な手配で疲れ果て、とびきり長い蝋燭は当分消えまい、と安心してうとうとと居眠ってしまって見た夢の舞台はネパールだった。
1970年、三浦雄一郎氏のエベレスト大滑降のキャラバンの隊長として、父は中学校1年の私を伴いカトマンズへの旅を敢行した。私には初めての海外旅行で、一日一日が鮮烈な体験だったが、中でもヒンズー教の中心地、パシュパテナートの光景は忘れ得ぬものだった。
死者を焼いて弔っている傍らで子供たちが遊び、走り回る。女性が洗濯をする。ハンセン病を患っている男性が私に向かって手を伸ばしながら膝行して来る。聖地である寺院の周りに凝縮して存在する生と死。子供ながらに神々は何を啓示しようとしているのか疑問に感じたものであった。
