「戦後間もない頃、2人が池袋や銀座で暴れていた」2人の間でおおいに盛りあがった昔の思い出話
私にすれば、松山ドンと金子バービーの顔合わせが甚だ興味深く、どんな話をするものなのか、聴き耳を立てていた。
すると、どういう流れからそうなったのか、昔の思い出話となり、戦後間もない頃、2人が池袋や銀座で暴れていた時分の話になって、興が乗って止まらなくなった。金子が“銀座のバービー”と言われた、まだ愚連隊時代の話で、いつものマシンガントークとなって(松山ドンも結構話好きな親分であった)、いろんな名前が飛び交い、時には“でかイチ”だの“硫酸ポチ”だの、私も名前だけは知っている不良が出てきたり、時間が過ぎるのも忘れるほど盛りあがった。
私はと言えば、もちろん聴きいる一方で、2人の記憶力の良さにつくづく感心したことを憶えている。もう30年以上も前のことで、会話の中味は大概忘れてしまったが、その時の情景は今も鮮やかに憶えており、ともに60代前半の男盛り(バービーが3歳下)、気力は充実し、ともかく2人とも覇気に溢れていたことが思い出される。迫力が違っていたなあ、と。
「あんなに小柄で可愛い顔をした子供のような男が…」“銀座のバービー”と恐れられた
金子バービーは昭和5年8月27日、東京・深川で、裕福な材木商の末っ子として生まれた。祖母は徳川の旗本の娘で、幼い頃から「勝てば官軍、負ければ賊軍」という話を耳にタコができるほど聞かされたという。
早くに家を出たのは頑固者で躾にやかましい父親の元を離れたかったのと、早15、6の少年の身で自立の道を見つけたからだった。
時は終戦直後の焼け跡、闇市時代、米軍キャンプの帝国ホテルや三信ビルに出入りしては毎夜、進駐軍相手の賭博で大金を稼ぐようになっていたのだ。やがて都内各高校の番長や中退者ら不良少年約100人を集めて、さながら愚連隊のような「大和会」を結成、“銀座のバービー”と恐れられた。
知らない人は、「えっ、あんなに小柄で可愛い顔をした子供のような男が……」と仰天するほど暴れっぷりも半端ではなく、その外見とのギャップも極端であったようだ。そんなバービーが博徒の名門中の名門、住吉一家・向後平の一門に連なり渡世入りするのは、18、9の時だった。家も近所で幼馴染み、小学校も同じで3年先輩の中久喜源重が向後の舎弟になっていた縁による。
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通算懲役22年8カ月の問題児だった金子幸市氏。その知られざる舎弟時代とは――。以下のリンクから続きをお読みいただけます。
