大山氏が「セックスは長く、挨拶は短く――と申します」と切り出して…

 当初、挨拶が予定されていた稲川会・岸本卓也本部長が急用で出席できなくなり、大山氏はその代役で担ぎ出されたのだ。何百人も参列する盛大な放免祝い、式が始まる直前、いきなり「代わって挨拶を」と言われても、普通は「できない」となって当然である。

 だが、それを大山氏は難なくやってのけたのだ。放免祝いの挨拶の定型を外さず、アドリブと軽いジョークを交え、それは見事なものだった。しかも、冒頭、

「スカートと挨拶は短いほうがよろしいと申します」

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 などというつまらない常套句は使わず、大山氏はズバリ、こう切り出したのだ。

「セックスは長く、挨拶は短く――と申します」

 これには思わず私も「おっ」となったが、緊張する場面で笑いも起き、その後も放免の主役を励ます心のこもった大山氏の話は続いた。決して紋切り型ではない味のある名スピーチとなって、慶事に花を添えたのだった。

 私もいろんな義理場の取材で多くの親分衆の挨拶を聞いたが、このフレーズは30年経った今も忘れずに耳に残っている(私もたまにパクらせて貰っている)。

大山健太郎氏(写真提供=徳間書店)

監獄で酔っ払って看守の前で歌ったりする意外な一面も

 もとより大山氏は弁が立つだけでなく、武闘派として躰を懸けて地盤を築き、一家をなした親分なのだが、私との縁も、氏の千葉刑務所の同窓生である新右翼のリーダー・野村秋介を介してのものだった。とはいえ、野村に正式に紹介された記憶もなく、おそらく野村の周辺をチョロチョロしている物書きとして、大山氏にも自然に知って貰えるようになったというのが、本当のところだろう。

 野村が河野一郎邸焼き打ち事件で12年の懲役を受けて千葉刑務所に服役中、大山は府中刑務所を振り出しに長野、新潟と不良押送され、最後にたどり着いたところが千葉刑務所で、2人が一緒だった時期は昭和41年からわずかの時間だった。が、大山の地盤とする東京・蒲田は野村の馴染みの土地であったことなどから話が弾んでたちまち親しくなったという。

 野村は著書の「汚れた顔の天使たち」(二十一世紀書院)で、大山のことをこう触れている。

《大山氏の出獄の前の年だったか、大晦日の日、大山氏がどこからかウイスキーを一本仕入れたのを、二人で半分ずつ飲んだ。すっかりいい気持ちになった大山氏が、隣りの私の房の前に看守がいるのに、大声で歌を歌って、便所の中にひっくり返ってしまったことがある。

 

 そんな楽しい触れあいなども経て、大山氏は私より先にシャバへ出ることになって、(中略)

 

「お互い蒲田だから、出たら会おう。いつまた会えるかわからないけど、それまで体を大事にして元気でな」

 

 と言って別れたわけです》

 それから9年後、昭和50年3月に野村は千葉刑務所を出所。だが、昭和52年3月3日、再び決起して「経団連事件」を決行、懲役6年の刑で府中刑務所に服役し、昭和58年8月に出所――という具合で間に2年間のシャバ暮らしを挟んで、都合18年もの獄中暮らしを余儀なくされたのだ。

 私が野村を通して大山健太郎氏と出会ったのも、昭和59年以降のことと記憶している。それからは何度も取材でお世話になり、取材先の義理場だけでなく、野村関連の催し事、あるいは他のイベント等、随分いろんなところでお会いする機会も多かった。

 私の原作「モロッコの辰」が柳葉敏郎主演で映画化された時には、そのロケ現場まで陣中見舞いに駆けつけてくれ、非常に感激したのを憶えている。

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 大山健太郎氏が若かりし頃に起こした“拳銃乱射事件”とは――。以下のリンクから、続きをお読みいただけます。

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