45年間にわたり、「ヤクザ」と呼ばれる人々を取材してきたフリーライターの山平重樹氏。そんな山平氏が、ヤクザたちの意外な素顔や、これまで世に知られていないエピソードを綴った著書『私が出会った究極の俠たち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(徳間書店)を上梓した。
ここでは、同書より一部を抜粋し、稲川会最高幹部の大山健太郎氏の素顔を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
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「大きな喧嘩になって相手側をぶっ刺したり、こっちも代行が頭を斬られたり…」
大山健太郎氏の話は、痛快で面白かった。
「私が川崎から蒲田に出てきたのは愚連隊の時分で、蒲田には醍醐安之助という、後に都議会議長までやった大物がいて、この下の弟に“人斬りのヨッちゃん”って体中30カ所くらいの刀傷を持った凄い愚連隊がいて、私の兄貴分の山川修身も一目置くくらいの男がいたんですよ。
私とぶつかったのはこれではなくて、醍醐の跡目をとった男で、私らが7人でヤローの家に殴り込みをかけたわけですよ。いても1人や2人だろうと思っていたら十何人もいて大きな喧嘩になって相手側をぶっ刺したり、こっちも代行が頭を斬られたりして、結局は間に入ってくれる人がいて収まったんですけどね。蒲田はそこから始まったんですよ」
大山氏が23歳の頃で、最も血気盛んな時分であった。蒲田という地域は多摩川を挟んで東京と神奈川の境目、当時はキャバレーが8軒もあるくらい盛り場も賑わい、日本人、朝鮮人、台湾人が三つ巴で覇を競って、連日、揉めごとが絶えない街であったとか。
「双方入り乱れて斬りあい、撃ちあい…」“拳銃乱射事件”勃発
「そのあとで、東声会とも拳銃乱射事件をやってますよ。パチンコの景品買いで揉めて、相手の行儀悪いヤツを引っ張ってきて、さんざん締めた。向こうもそこまでされて黙っているわけにはいかないって、私を攫いに来た。沖田(守弘)・金海(芳雄)連合軍ですよ。7、8人が車2台で拳銃持ってオレの事務所にやってきた。
相手の懐に拳銃が見えたもんだから、うちの若い衆が台所から出刃包丁を取って、裏からまわってそれで相手を刺した、そこから先は双方入り乱れて斬りあい、撃ちあいで、私も危うく撃たれるところだった。
近くからオレを狙ってたヤツがいたのを、『兄貴、危ない!』と飛びついてきた舎弟がいたんで、弾が逸れて助かったんです。そこへ横浜から助っ人に来たのが、井上(喜人)一派。『おまえが大山というのか。あとのことは心配するな。町井(久之)を殺しに行くからついてこい』って。銀座まで行ったんだけど、これ、どうなっちゃうのかなあと思ってさ……最後は話がついたんですけどね」
醍醐安之助、町井久之、井上喜人、沖田守弘……等々、今となっては歴史的な裏社会の大物の名が、氏の口からポンポン飛び出してくるのだから、驚きだった。やはり、この人は古いキャリアの親分なのだと、改めて実感できたものだ。
