『短歌』を武器に、自分の文体を壊そうとした

葉真中 今回の『おまえレベルの話はしてない』については、私は芦沢さんが小説を書いている時から「今こんなの書いてるんだ」という話を聞いていました。作家には今書いている作品の話をしたい人としたくない人がいて、芦沢さんは多分したい人なんです。その時「純文学をやりたいんだ」と言っていて。これはこの小説が出来上がった今だから言えることなんですけど、私は密かに「迷走してるんじゃないの?」と思っていました(笑)。

『おまえレベルの話はしてない』(河出書房新社)

芦沢 それ、リアルタイムでも言ってましたよ(笑)。

葉真中 芦沢さんはエンターテインメント、それもミステリーの分野でかなりの読者を獲得されている作家なので、「わざわざ読者の少ないところに突撃していく必要あるの?」と思ったんです。「将棋だったら将棋のエンタメ小説を書けばいいじゃない」と。さらに芦沢さんは「自分の文体に悩みがあるから、文体を壊したいんだ」と言っていて。あんまりエンタメ作家はそういうこと考えないから、「大丈夫かなあ」と。

ADVERTISEMENT

芦沢 どこ行くの? ってね。

葉真中 そもそも「文体を壊す」ってところから疑問で、「壊すために何をやっているんだ」と聞いたら「今短歌作ってる」と言い出して、「これは本格的にやばい、どうなっちゃうんだろう」と。小説を書くために短歌を詠むなんて、少年漫画の特訓篇みたいな話じゃないですか。謎の特訓を始めたという感じ。でも完成した作品を読んだら、これまでの芦沢さんの作品とは文章の密度が違う。この本の最初の一段落を読んだだけでも、本当に修業して、パワーアップしてると感じました。正直、私は小説って、プロのレベルまでくると、努力したから上手くなるもんでもないと思っていたんです。でも、実際に出てきたものを見て「芦沢さんくらい上手い人でも努力でさらに向上するんだな」と。ある意味勇気をもらったというか、だったら、自分にもやれる努力があるはずだと思えました。

 

小説にはまだこんな可能性がある

芦沢 葉真中さんにそんなふうに言っていただけて嬉しいです。短歌を作ることにしたのは、自分の文体を壊そうと思っても、あまりにも強固に壊れなかったからなんです。純文学に近づこうとしても、ただ描写が濃いだけのエンタメ小説になってしまう。そこでイメージを短歌の形で描写することにしたんです。そうすると31文字しかないから、この言葉で本当にいいのか? みたいな感じで、言葉の精度が上がっていく。

 まずは一つの言葉にどれだけの意味を複合的に持たせられるかを試すために短歌を作って、できた短歌を全部捨て、その過程で出てきた言葉を使って小説を書くことによって、筋ではなく、そこにあるものを掘るということができた。自分が作った31文字がツルハシになって、「これがあれば掘れるぞ」という感じです。

葉真中 実際、前半の「芝篇」は形式としては純文学だと思います。一冊の本に「芝篇」っていうプロ棋士の話と、そのあと「大島篇」っていうプロをあきらめた元奨励会員の話があるんですけど、「大島篇」はわりと分かりやすいエンターテインメントの小説で、文体もがらっと変わるんですね。

芦沢 本当は「芝篇」だけを1本で本にするって話もあったんだけど、「大島篇」はいつもの文体なので、これだけ文体と書き方が違うものが一緒に入った場合、登場人物の声の違い、世界観とか物の見方、時間感覚の違いを文体から表現するというのは、小説ならではの試みとして面白いんじゃないかと。

 ジャンル分けは最終的にはあまり関係なく、せっかく違う文体のものができたんだし、それを活かした本にしようという感じですね。

葉真中 「大島篇」の最後の一行、フレーズがやっぱりこの本全体を綺麗に閉じさせている。これはすごいエンタメ的な発想だと思います。でも純文学の手法で書かれている「芝篇」は、こういう綺麗な終わり方は多分できないはずだから、1冊の本として考えた時は後ろに「大島篇」が入って、うまく閉じている感じがとても良いなと感じます。この形式は多分他にやっている人はいないし、小説というものの一つの可能性を掘っているんじゃないかな。

芦沢 小説って面白いですよね。

葉真中 面白い。その面白いというのは話の内容の面白さの話じゃなくて、いろんなことができるということ。小説って表現形式として実はまだまだ可能性があるんだって思える。そう思わせられることが芦沢さんの強みだと思うんですよね。私なんかは小説に、ある種の不自由さを感じることが多いから、ポジティブに「まだまだいろんなことができる」と思えることはすごい強さだし、実際これまで自分がやってこなかったこと、やれなかったことをやって見せて、それを証明している感じもしました。