長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)には、「しばらくは、熊本で受けた心の打撃が日本人全般の不信にまで広がり、西田の手紙にさえ、『日本人を理解できると信ずる外国人は、何と愚かであろう!』と書くほどであった」と記されている。
人々が酒を飲んで騒ぐのは「地獄」
こうした愚痴や怒りのいわば「はけ口」になった西田は、さぞかし大変だったことと思うが、以前から病んでいた結核が悪化して、明治30年(1897)3月15日、妻と1女3男を残してこの世を去ってしまう。だが、いうまでもないが、セツは結婚生活を通してずっと、ハーンの極端な「こだわり」と付き合っていくしかなかった。
小泉家の遠縁でハーンのアシスタントを務めた三成重敬が、セツが語った思い出を口述筆記した『思ひ出の記』(ハーベスト出版)から、ハーンの相手を翻弄するほどのこだわりの逸話を拾ってみたい。
セツによれば「嫌いになると少しも我慢を致しません」というハーンは、騒がしい場所が許せなかった。伯耆国(鳥取県中西部)に旅したときは、東郷の池という温泉場に1週間ほど滞在する予定だったが、「そこの宿屋に参りますと、大勢の人が酒を呑んで騒いで遊んでいました。それを見ると、すぐ私の袂を引いて、『だめです、地獄です、一秒でさえもいけません』と申しまして、宿の者共が『よくいらっしゃいました、さあこちらへ』と案内するのに「好みません」というのですぐにそこを去りました」。
自分が好むこと以外に時間を割くのも大嫌いで、「ヘルンは面倒なおつき合いを一切避けていまして、立派な方が訪ねて参られましても、『時間を持ちませんから、お断り致します』と申し上げるようにと、いつも申すのでございます。ただ時間がありませんでよいというのですが、玄関にお客がありますと、第一番に書生さんや女中が大弱りに弱りました」。
英語も洋服も電話もダメ
ハーンが他人と会わない理由についても、セツは語っている。