たとえば、桑原羊次郎『松江に於ける八雲の私生活』(山陰新報社)には、ハーンが最初に滞在した富田旅館(「ばけばけ」の花田旅館のモデル)の女将ツネの証言として、「ばけばけ」でも描かれた場面について、次のように書かれている。

「節子様の手足が華奢でなく、これは士族のお嬢様ではないと先生は大変不機嫌で、私に向かってセツは百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す、士族でないと、度々の小言がありましたので、これには私も閉口致しまして種々弁明いたしましても、先生はなかなか聴き入れませんでしたが、しかし士族の名家のお嬢さんに間違いありませんので間もなく万事目出度く納まりました」

士族フェチだったことと、ウソが極端に嫌いだったことで、こういう反応になったわけだが、あいだに立った西田も閉口したであろうことは、容易に想像できる。

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「熊本は大嫌いだ」と言ったワケ

島根県尋常中学校と師範学校で英語教師を務めたハーンが、だれ一人知り合いもいない松江で最初に意気投合したのが、同中学教頭で英語教師の西田だった。ハーンの周囲で、英語でコミュニケーションをとれる唯一の人物であり、2人は連日のように行動をともにし、友情を深めた。

2人は書簡も頻繁に交わし合ったが、それだけにハーンの愚痴もすべて西田のもとに集中することになった。ハーンは明治24年(1891)11月、熊本の第五高等学校に招聘され、セツのほかに女中と車夫を連れ、中国山地を越えて熊本に向かった。結局、熊本には稲垣金十郎、トミ、万右衛門(「ばけばけ」の松野司之介、フミ、勘右衛門のモデル)も同居することになった。

しかし、西南戦争で城下町が焼失し、近代化が進む熊本が、ヘブンはどうにも気に入らない。西田への手紙には「熊本が日本であるとは全然思われない。熊本は大嫌いだ」などと熊本を忌み嫌う表現があふれ、熊本が嫌なあまり日本そのものに対する見方も変わり、日本について「地獄であるものを天国であると思い込んでいたのです」とまで書くようになった。