クィア映画としての心地よさ
兄弟がフェンシングの練習をしているシーンの微笑ましさは、永遠にこれが続けばいいと思える平和さだ。フェンシングを映画に取り入れた作品も意外に少なくて、世界的なスポーツの割には見慣れないこともあり、ビジュアル的にもいい。
本作は特にそれを喧伝することもないがクィア映画でもある。ジージエはフェンシングのクラブに気になる青年がいる。その様子を見たジーハンは非常に気軽に「彼はイケメンだし、告白してデートすればいい」と助言する。弟とその相手が同性愛者であることを確認するでもなく、自然と見抜いて当然のように恋愛を勧めるのが、クィア映画としてとても心地良いスムーズさを持っている。性的指向を尋ねることもないこの兄弟のナチュラルな会話は、舞台もゲイバーであることから、もしかしたら暗に兄のジーハンも同性愛者であることを示しているのかもしれない。この後のジージエのデートシーンの瑞々しさは、このニューロティックなミステリーの中の一服の清涼剤となる。
「家族思い」と「悪魔的な欲望」の二面性
本作は冒頭での川で溺れている弟をすぐに助けなかったジーハンの、謎めいた性格にフォーカスを当てる。彼はもがいている弟をじっと眺めていてすぐに助けなかったが、しかし結果的には手を伸ばして弟を救い出してはいる。この二面性をどう解釈すればいいのだろうか。彼自身も自分の家族思いの感情に混じる、闇の部分に戸惑っているように見える。人の悪と善はきれいに二分されているわけでなく、混濁しているものだ。気分によってつい不機嫌になることだってあるだろう。しかし死が伴う場面で虚ろに眺めている内面には、確かに悪の兆しも見て取れるだけに、人の二面性は不気味さが漂う。
また、川で溺れていた弟をしばらく助けなかったことと、フェンシングの試合中に剣が折れた死亡事故は別件なのではないか。故意に試合相手を殺そうと思ったわけではなく、あくまでそれは事故だった。だがそんな人物の中には幼い頃、弟を見殺しにしかねなかった悪魔的な欲望の萌芽もあった。それゆえに、フェンシングの試合での事故も、故意の殺人と判断されてしまったと思える。


