この「手記」とされる文章の息遣いに覚えがある。
言葉の拍。沈潜。強度。静謐。それゆえに暴発した時の凄まじさ……。「私は既に、取り返しのつかない状況にいる。今のこの状態は、全てを可能にしてしまう」と手記に書いているのは、30代らしき主人公の男=「私」だ。
だが、この切迫の度合いは、成人のものだろうか。より瑞々しく凶暴で、原初の実存にかかわるところから発せられている。いわば言葉や思考、認識なるものを知ったばかりの幼児や少年、つまり、世界に初めて参入して戸惑い、恐れ、怒り暴れるほどの衝撃を受けている私たちの幼い頃の息遣いに似ているのだ。
あるいは、フランスの詩人ポール・ヴァレリーのいう、「知的クーデター」――既存の言葉や思考体系が破綻して、まったく別種の世界を得ようとする自己変革――を起こした者か。
「私」は幼児期に左手に蛇が宿っていると信じ、やがて大人となって、ある計画を遂行するために「蛇信仰」の残る平家落人の地へとやってきた。その地での毒蛇狩り、殺人、白蛇を祀る神社の宮司や刑事、蛇を探す女との絡み、そして、軍需産業に携わり米国大統領選出馬を狙うロー・Kなる男を毒蛇によって暗殺しようとするテロ。
物語はアクロバティックな展開を重ねつつも、むしろ正気と狂気の間で一縷の均衡にすがりながら心の奥底へと降りていく。
かつて世界各地にあった「蛇神」への信仰は強者による歴史によって追いやられ、怨霊となって蘇るしかない。そこで「私」は企む。「蛇神の復活を見れば、これまで虐げられ消された神々が、この世界に再来するかもしれない。そして世界は最初から、やり直し始めることになるかもしれない」と。偽りだらけの歴史によって作られた世界を破壊し、「全ての可能性の解放」のために毒蛇によるテロ計画を練るわけだ。
つまり、戦争や格差、暴力、虐殺だらけの現在が、権力者側によって書かれた「正史」の延長にあることを暴き、「私」ならではの「稗史(はいし)」を書くことこそがテロともいえる。この呼吸や眼差しが、言葉を覚え始め、理不尽な世界に放り出されたまま飼いならされていく己れに抗おうと叫び、暴れる幼児や少年に似ていると言えばいいか。
世界の起源という過去を見据えながら、その果てにある光を未来につなごうとする試み――「現在や未来で、過去は変えられるんだよ。……起こったことは変えられないけど、その後の時間をどう生きるかで、過去の印象や意味合いは変えられる」。
自らの尾を噛む蛇(ウロボロス)的な永劫回帰となろうとも、「私」は書くことによって一つの奇蹟のような救いを提示した。この手記(小説)こそが、現代に新生した「蛇」であり、未来なのだ。
なかむらふみのり/1977年生まれ、愛知県出身。2002年小説家デビュー。05年『土の中の子供』で芥川賞受賞。10年『掏摸』で大江健三郎賞を受賞したほか、英訳版が米国で高い評価を受ける。24年『列』で野間文芸賞受賞。本作は2年ぶりの新刊小説。
ふじさわしゅう/1959年生まれ、新潟県出身。小説家。近著に短編集『鎌倉幽世八景』、エッセイ集『遊ビヲセントヤ』など。
