その結果、ニューヨーク州のコーネル大学で20回の連続講義を行えることになったのだが、コレラが流行して中止になってしまったのである。ハーンが没したのは、その2年後の1904(明治37)年のことだった。
その後、ビスランドはハーンの遺族たちに大いに貢献した。まず1906(明治39)年に『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』(全2巻)を、1910(明治43)年には『ラフカディオ・ハーンの日本時代の書簡』を刊行し、その収益を小泉家に寄付している。
1作目がヒットした後、ビスランドはセツに宛てて、次のようにはじまる手紙を送っている。「『生涯と書簡』が好評で、あなたとお子さんたちに十分な利益になったことをとても嬉しく思います。親愛なるラフカディオも喜んでいることでしょう」(横山竜一郎訳)。
セツが抱いた複雑な思い
むろん、セツもビスランドに感謝の気持ちを記した手紙を送っている。1907(明治40)年4月3日付の手紙には、こう記されている。
「かねてより楽しみにしておりました、あなたが故人に傾けられたご支援の記念品(註・前述の『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』のこと)を手にした時には、ただなんとなくあなたの温かみに触れたように感じました。このような大いなる本を作るには実にたいへんな骨折りと、深い深い友情より来たのでしょう。このあなたの力を込めてくださった贈り物に対して、一生懸命感謝の気持ちを持ち続けるでしょう。私たちにとってこれほどの贈り物は世界にないのです」
その後、ビスランドは3回来日し、1922(大正11)年には、松江城の堀端にいまも公開されている「小泉八雲旧居」も訪ねている。
そんなビスランドに対し、セツが捧げた感謝の気持ちには、ウソや偽りはないものと思われるが、当然ながら、夫と彼女が精神的に深く結ばれていたことに、セツは気づいていたはずである。セツにとっては、感謝しつつも、複雑な思いをいだかざるをえない対象だったのかもしれない。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
