その後、2人は生涯にわたって深い交友を重ねる。ただし、それぞれ日本とアメリカに離れて暮らし、その後は直接会うことは叶わなかったのだが、おびただしい数の往復書簡を残している。それについて、ハーンの長男の小泉一雄は著書『父小泉八雲』にこう書いている。

「エリザベス・ビスランド女史との親交は、あるいは一種の恋愛ともいえるかもしれぬ。しかし、それは白熱の恋ではない。沢山の蛍のごとき清冽な恋である」

違法と知りながら結婚→破綻

それが意図してのプラトニックラブだったのか、2人の距離が離れていたがゆえにそうならざるをえなかっただけなのか、わからない。ただ、ハーンが来日前に、ビスランドとの結婚に踏み切れなかったのは、最初の不幸な結婚の記憶が、足かせになっていたからかもしれない。

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若きハーンは1874(明治7年)に新聞社、シンシナティ・エンクワイアラー社の社員になり、翌年、黒人との混血女性アシリア・フォリーと結婚するが、当時のオハイオ州の法律では、白人と黒人の結婚は禁止されていた。このため、ハーンは解雇されてしまう。他社に転職はできたものの、3年後に結婚生活は破綻。ニューオーリンズに転居している。

結局、ハーンは1891(明治24)年中に、「ばけばけ」のトキのモデルである小泉セツと事実上の結婚を遂げ(ハーンが帰化して小泉八雲となり、戸籍上の結婚が認められるのは5年後の1896年)、同じ年にビスランドも法律家のチャールズ・W・ウェットモアと結婚した。

だが、前述のように、2人は結婚後もおびただしいまでに書簡を交換し合っている。心のなかの「思い人」はたがいに、ビスランドとハーンだったのか。ハーンの日本における9作目の著作で、1901(明治34)年に刊行された『日本雑記』は、ビスランドに捧げられている。

ビスランドによるハーンの遺族への献身

ハーンが日本に発って後、2人が会うことはなかったものの、もう少しで会える直前までは事が進んでいた。長男の一雄に短期でもアメリカの教育を受けさせたいと考えたハーンは、1902(明治35)年から1年または2年、アメリカで働けないかと考え、ビスランドに働き口を探してもらえるように依頼している。