三人の弟たちのなかで秩父宮だけが退位論を唱えていないと天皇は思っていた。しかし51年12月17日、田島から「一昨年や昨年始め頃はそうでない宮様の御意思の様(退位説)な印象を受けて居ります」と言われ、天皇は「おかはりになつたか……」と衝撃を受けている。二・二六事件に際して青森県の弘前から秩父宮が上京してきたときの悪夢がよみがえったのかもしれない。
「大宮様」と呼ばれた皇太后節子との確執は大正末期から続いていた。それをうかがわせる記述が『百武三郎日記』にある。37年3月6日、侍医頭の佐藤恒丸から聞いた話が記されている。
「大宮様には至極御健康に入らせられ申分なし。唯他の三宮様は至つて御親しきも、御上との御間十分ならず。或時佐藤は何時も寛大に居らせらるゝ御上の御景色全く平常と御変りあり且つ御叱責を蒙りたることあり。其時は直前に大宮様御参入ありし時なり」
天皇と皇太后が会うと激しい口論になり、皇太后が去ってからもしばらく天皇の感情がおさまらなかった。そんな二人の関係が伝わってくる。
二人の確執を解く鍵
皇太后が51年5月17日に急逝した翌月、皇后時代に当たる26(大正15)年10月に記した遺書が見つかった。『昭和天皇拝謁記』には、その内容をめぐって天皇と田島が話し合う場面がある。
「秩父宮や澄宮〔三笠宮崇仁親王〕は(まだ三笠さんの御名のない頃故)何か由緒ある家宝となるやうなものを上げたいといふ風に書いてあるが、これは軽くその通りにとつていいか、或はそれを重くとつてしなければならぬのかをよく考へて研究して貰ひたい」
有栖川家の祭祀を継承し、同家の家宝を持つ高松宮に匹敵する家宝を、秩父宮と澄宮(三笠宮)にも持たせたい。「軽くその通りに」遺書の文面を見ればそう読める。しかし天皇はそれだけで満足しなかった。「重くとつてしなければならぬ」、つまり「由緒ある家宝」の意味を重く受け取らなければならない可能性があると言っているわけだ。


