香淳皇后の人生をたどる『香淳皇后実録』が公開された。その読みどころについて、政治学者の原武史氏が語る。

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香淳皇后と「日本の運命を決めた日」

 10月9日、宮内庁ホームページで「香淳皇后実録」(以下「実録」と略す)が公開された。1903(明治36)年に皇族の久邇宮良子(くにのみやながこ)女王として生まれ、24(大正13)年に皇太子裕仁(後の昭和天皇)と結婚して皇太子妃に、26年に大正天皇の死去に伴い皇后に、89年に昭和天皇の死去に伴い皇太后になり、2000(平成12)年に亡くなるまでの97年3カ月に及ぶ生涯が、編年体で編纂されたものだ。

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 全体を通して見ると、「実録」の最大の読みどころは戦中期にある。とりわけ昭和天皇が「大東亜戦争終結に関する詔書」(以下「終戦の詔書」と略す)を朗読した玉音放送が流れた前日の45(昭和20)年8月14日条は驚くべきもので、これまで知られていなかった昭和史や終戦史の一端が明かされたと言える。

『香淳皇后実録』 Ⓒ時事通信社

 この日は日本の運命を決める1日となった。『昭和天皇実録』第九(東京書籍、2016年)には、実に8頁にわたって8月14日の天皇の動きが記されている。

 まずはその主な動きをまとめておこう。

 午前11時2分、天皇は皇后と一緒に住んでいた防空施設「御文庫(おぶんこ)」を出て、地下防空壕として建設された「御文庫附属室」で開かれた御前会議に臨んだ。この席で天皇は、ポツダム宣言の受諾に伴う戦争終結を決断した8月10日未明の最高戦争指導会議での「聖断」に変わりはないという二度目の「聖断」を下した。そして自らマイクの前に立ち、詔書を読み上げることで国民に戦争終結を伝えたいと話した。会議が終わって天皇が御文庫に戻ったのは、午前11時55分だった。

 午後8時32分、天皇は御文庫に参殿した鈴木貫太郎首相から「終戦の詔書」を受け取り、9時20分に署名した。詔書は午後11時に官報号外をもって発せられた。ただし国内向けの公表は、翌15日正午からの玉音放送まで延期された。

昭和天皇と香淳皇后

 午後11時25分、天皇は再び御文庫を出て、こんどは宮内省内廷庁舎に向かった。そして「終戦の詔書」を朗読する玉音放送の録音を2回行い、15日午前零時5分、御文庫に帰ってきた。天皇が就寝したのは、午前零時50分だった。

 以上のような『昭和天皇実録』の8月14日条に、皇后は全く登場しない。では「実録」の同日条に、皇后の動きはどう記されているだろうか。