昨十三日より御用御多端の天皇をお気遣いになり、内廷庁舎等と御文庫との度重なる御往返に際し、お見送り又はお出迎えになる。夜、翌十五日に御参内予定の皇太后へ御贈進になる菓子をお作りになり、最初に作られた物を天皇にお贈りになる。
昨年来御希望の鹿島神宮・香取神宮御参拝を、防空状況に鑑みて断念され、この日、皇后宮事務官徳川義寛を両神宮に差し遣わされ、御代拝を仰せ付けられる。また、両神宮に幣帛料・神饌料をお供えになる。
8月14日の新事実
ここには二つのことが語られている。
一つは、前日から多忙を極める天皇を気づかい、御文庫で送迎に努めたばかりか、14日の夜になって菓子を作ったこと。菓子は翌15日に参内することになっていた天皇の母、皇太后節子(さだこ、貞明皇后)に贈るために作ったのだが、最初に作ったものを天皇に贈っている。
もう一つは、1944(昭和19)年から希望していた茨城県の鹿島神宮と千葉県の香取神宮への参拝を空襲の激化から延期していたところ、14日になって皇后宮事務官の徳川義寛を差遣し、代拝するよう命じたこと。徳川は36年に昭和天皇の侍従となり、半世紀にわたり天皇に仕えたが、44年からは香淳皇后に仕える皇后宮事務官を兼職していた。
いずれも初めて明らかになった事実である。ここから浮かび上がってくるのは、皇后が天皇とは全く異なる動き方をしていたことだ。その動きから察するに、天皇がこの日に二度目の「聖断」を下し、敗戦が決まったことを皇后は知らされていない。
※本記事の全文(約11000字)は、「文藝春秋」12月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(原武史「『香淳皇后実録』最大の読みどころ」)。 全文では、以下の内容をお読みいただけます。
・皇后の「銃後の守り」
・「アナタノ豚ハ何デスカ」
・「終戦の詔書」へのこだわり
