世界の舞台で旋風を巻き起こした日本人は、何も大谷翔平が最初じゃない。アートの世界でいえば、20世紀にピカソやシャガールらとともに、巨匠と呼ぶにふさわしい地位を確立した人物がひとり。藤田嗣治である。
没後50年を機に、これまでにない規模で大回顧展が開かれることとなった。東京都美術館での「没後50年 藤田嗣治展」は、大芸術家の生涯をつぶさにたどれて、見ごたえあふれる好企画だ。
日本人らしさを武器にパリで台頭
藤田嗣治は1886年生誕というから、明治半ばの生まれとなる。軍医の父のもと厳しく育てられたが、絵画の道を志す許しは得ることができた。1910年代には、当時のアートの中心地・パリに居を移す。
藤田がモンパルナスに住むこととなったのは半ば必然で、そのころ一帯には若きアーティストとその卵がひしめいていた。ピカソもいればシャガール、モディリアーニらも。のちに20世紀美術史に名を残す面々が、身を寄せ合うようにして暮らし、腕を競い合っていた。
世界中から集まった腕利きに伍して、藤田は頭角を現す。アーティストにとって必須のオリジナリティを打ち出すにあたり彼が武器としたのは、日本人としての特性である。
それがどんなものだったかといえば、まずは手先の器用さと繊細さ。藤田は日本の筆を使って細い線描で事物の輪郭を描き出した。その手つきは他が容易に真似できるものではなかった。
画面を埋める色合いも独特だった。薄塗りでニュアンスに富んだ色の使い方には品があって、とりわけ女性の肌を描き出すときの乳白色は、いちど目にしたら忘れられない。東洋の上等な磁器を思わせる鈍い輝きは、藤田だけが成し得た表現だ。
画面構成にも「らしさ」を発揮した。西洋の人物や空間をモチーフにしているのに、それらを藤田が並べると、極めて装飾的でありつつ平面的な画面となる。尾形光琳らによる日本の琳派芸術や、浮世絵などにも見られる装飾性と平面性を、みごとに油彩画へ落とし込んでいるのである。
日本らしさを存分に打ち出すことによって、藤田は多士済々のモンパルナスの中でも際立った個性として認識されていった。