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 だが、亀裂はほどなく訪れる。家事の進め方や日々の生活ぶりに母が干渉するのだ。たとえば料理にしても、「手際が悪いよ」「味が濃いね」「盛り付けがヘタ」と次々口を挟んでくる。

「マイルール」で一家を仕切り始めた母

「じゃあ自分でやれば?」、早智子さんがつい切り口上で返すと、「せっかく教えてあげようと思ったのに……」。ひどく傷ついた顔をして涙ぐむ。善意の押し売りは厄介だが、その上被害者ぶられてはますますやりにくい。

 母が繰り出す「マイルール」にも閉口した。「日光を浴びて脳を活性化させる」となれば、早朝からベランダに出て陽に当たり、歌まで口ずさむ。おちおち寝ていられないだけでなく、家族みんなにしつこく勧めるからたまらない。やんわり断ると、今度は別のルールを持ち出して一家を仕切ろうとする。

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「私は夫にも子どもに恵まれた」と勝ち誇る

「一番嫌なのが娘たちを批判されること。長女は社会人、次女は大学生になりましたが、2人とも今どきの若い子特有の苦労をしている。長時間働いたり、就活に必死だったり、私から見るとすごくがんばっているんです。でも母は、『たいした仕事でもないくせに』とか、『彼氏もいないなんて情けない』とか悪く言う。そういう時代じゃないのよ、といくら説明しても通じないし、結局私の育て方がダメなんだとくるんです」

 そうして自分のこれまでを引き合いに出す。好きだったデパート巡り、趣味の生け花や観劇、夫婦で出かけた国内外の旅の思い出、ひとしきり過去の栄光を語っては「私は夫にも子どもにも恵まれた」、いかにも勝ち誇って言うのだ。

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 そんな母と過ごすうち、早智子さんは心の奥の留め金がはずれ、子ども時代のもやもやした記憶が蘇った。テストで好成績を取っても、母は「この程度で喜ぶなんて甘いよ」とにべもない。仲良くなった女友達のことを話せば、「あの子は早智子と合わないでしょ」と遠回しに拒絶する。

 中学生のころ、はじめてもらったラブレターを無断で開封された。「年頃だから心配するのはあたりまえよ。それとも親に隠したい、おかしなことでもやってるの?」──あのときの母は汚いものでも見るような目で言い放った。翌月、早智子さんの生理がいつもより少し遅れると、「産婦人科に連れていく」と息巻いた。

 あれが本性とは思いたくない。それでも長いときを経て、早智子さんは母が隠し持つ毒針をようやく知った気がした。

吐き気やめまいに襲われるように

「母が脳梗塞になったとき、私は『チャンス』だと思いました。亡くなれば解放されるし、助かっても障害が残ればそれを口実に施設に入れられる。でも、世の中うまくいかないですね。母はすっかり元気を取り戻して、逆に私のほうが弱ってます」

 更年期障害がぶり返したのか、あるいは日々のストレスからか、体は重く頭が働かない。吐き気やめまいに襲われて寝込んでいると、母がいそいそと枕元にやってくる。

「まだ若いのに、だらしないわねぇ」「私は脳梗塞でもビクともしなかったんだから、早智子も甘えてんじゃないわよ」

 落ち込む娘を尻目に、なぜだか母は嬉々として「ほら、見てごらん」。イッチ、ニィ、サン、シィ……、しわの寄った手足を伸ばしてラジオ体操をしてみせる。

感謝するのがあたりまえなのにと自分を責める

 これは母なりの励ましだ、別に悪気があるわけじゃない、何度も自分に言い聞かせた。現に夫は、早智子さんの愚痴を聞くたびに「気にしすぎだよ」と一蹴する。娘たちに至っては「おばあちゃん、お小遣いちょうだい」、ケロリと甘え、ご機嫌取りに肩揉みなどする。

「虐待のニュースとか見るとね、ああいうのが毒親だと思うんです。私は母に暴力を振るわれたこともなく、それどころかちゃんと育てられた。今の暮らしは母のお陰でもあるんだし、感謝するのがあたりまえかなって」

 早智子さんは噛みしめるような口調で言う。少しの間を置いて、「でも苦しいんです。よくわからないけど、どうしても苦しい……」、低く絞り出すと小さく唇を震わせた。