戦後73年。戦争体験者から“あの時代”を表現する新世代まで、それぞれの「歴史との向き合い方」とはどんなものでしょうか。テレビドラマ『寺内貫太郎一家』でもおなじみ、作曲家・小林亜星さんが終戦を迎えたのは13歳。音楽とともにあった戦前・戦後の貴重なお話をお伺いしました。(全2回の1回目/#2へ続く)

小林亜星さん、86歳!

戦時中っていえば、ジャズが禁止されてたってことかな

小林 この8月11日で86になりました。やんなっちゃいますよ。後期を超えて「末期高齢者」だって言ってるの(笑)。

ADVERTISEMENT

――今日は小林さん自身と「寺内貫太郎」の戦争体験、戦後をお伺いしたいと思っています。

小林 あのドラマをやったのは、僕が41歳のときでしたね。昭和49年か。相当前ですね。

――1974年ですから、44年前です。

小林 それで今年は戦後73年でしょう。そりゃあ、戦争を経験していない方々のほうが世の中には多いわけだ。それはそれで、怖い世の中ですよ。

 

疎開先のお寺にオペラのレコードがありましてね

――小林さんは13歳で終戦を迎えられていますが、戦時中のことですぐに思い出すことって、どんなことでしょうか。

小林 そうですね、ジャズが禁止されたってことかな。あれはアメリカ、「敵国」の音楽だからダメだった。ハワイアンもダメね。クラシックは大丈夫だったんですよ。なぜって、ドイツ、イタリーが同盟国でしょ。だからベートーヴェン、バッハ、ドイツの作曲家の作品は聴けたし、イタリーはオペラね。僕は小6のときに集団疎開で長野は小諸の成就寺に住んでいたんですけど、そのお寺には手回しの蓄音機と2枚のレコードがありましてね。オペラのレコードは『蝶々夫人』だったかな、それとタンゴの曲が入ったものと。一緒に疎開した友だちと聴いてました。

 

――太平洋戦争が始まるまではジャズやハワイアンに親しんでいたんですか?

小林 ハワイアンは灰田勝彦・晴彦兄弟とか、バッキー白片さんとか盛んでしたし、ジャズは日本人のアレンジで流行っていたんですよ。音楽評論家の堀内敬三さんがアレンジして歌詞をつけた『アラビヤの唄』。二村定一さんが歌ったヒット曲です。