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小林亜星 86歳が語る「ざまあみろ」って思った終戦 13歳の夏

小林亜星 86歳が語る「ざまあみろ」って思った終戦 13歳の夏

作曲家・小林亜星インタビュー#1

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日米開戦「負けるわけにはいかない」ぐらいは思いましたけど

――ご両親から音楽の影響を受けたことはあるんですか?

小林 いえいえ、音楽に囲まれるほどいい家庭じゃなかったから。ただ、親父は音楽が好きだったんでしょうね、北原白秋の詞がついた、山田耕筰の楽譜をきれいに五線譜に写したりしてました。でも影響は受けていないな。というか、そういう親に反発して僕は、ジャズやハワイアンの方に興味を持ったんです。終戦後、中学生でバンドを組むのも反抗ですよ(笑)。

――軍歌はどうでしたか? 

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小林 いや僕はひねくれ者だから、軍国少年ではなかったの。軍歌にしたって『愛国行進曲』をやたらでかい音で鳴らしながら走っていく右翼のオート三輪のことは覚えているけど、愛唱したってことはないですね。疎開先で『お山の杉の子』っていう歌をハモニカで吹いて、みんなに聞かせてたくらいです。「丸々坊主のはげ山は いつでもみんなの笑いもの」。その山の杉の子がやがて成長して、みんなのお役に立ちますよっていう国策的な歌です。当時は「国策」だなんて思わずに吹いたり歌ったりしてたんでしょうけどね。

 

――ちょっと引いたような、兵隊さんに憧れる気持ちもそんなにない少年だったんでしょうか。

小林 9歳のときに日米が開戦して「負けるわけにはいかない」ぐらいは思いましたけど、それよりも戦争っていうのはやだなって気持ちのほうが強かった。ジャズも聴けないし。それから、今でこそ僕はデブだけど、子どもの頃はヒョロヒョロだったんです。それで運動会とか大っ嫌いで、人と競争するのとか情けないことに苦手、ダメなんですよ。それもあって、戦争は嫌だ、戦うのは嫌だって思ってた。

玉音放送を聴いて「もう負けたって言ってたんだよ」って出まかせに

――昭和20年8月15日の玉音放送はどこで聴いたんですか?

小林 疎開先です。あの年は集団疎開から一旦東京に帰ってきたんですけど、3月10日の東京大空襲に遭いました。杉並に家があったんですけど、5月の空襲にも遭って何とか命拾いしました。それで今度は縁故疎開、おふくろの実家、長野県南佐久郡のほうに行きました。疎開先から4キロくらい歩いた、野沢中学校というところ。玉音放送を聴いたのも学校です。「今日は天皇陛下のなんか放送がある」ってことで集められたんだけど、ラジオはガーガー言ってるだけで、何を言ってるのかちっともわからない。放送が終わった後クラスのみんなが「もっと頑張らなくちゃいけないって天皇が言ってた」というから、僕は「もう負けたって言ってたんだよ」って出まかせに反抗したんです。みんな怒っちゃってね、ぶん殴られそうになったんだけど、先生が「日本は負けました」と。ざまあみろって思いましたね。

 

――それでもう一度東京に戻ってくるんですね。

小林 実家でおふくろに会うと「ああよかった、これで私たちの時代が来るわ」って言う。それはそれで頭に来ましたよ。おふくろは死ぬまで考えが変わんなかった人で、ソ連が崩壊したときに「ほらみろ、おふくろの時代は結局来なかったじゃねえか」って言ったら、「本当の共産主義はあんなもんじゃない」だって。まったくもう、どうしようもない人でしたね(笑)。