飛躍する「感動の愛国物語」とどう向き合うか
戦死した軍人の写真や遺書は涙を誘わずにはおかない。これは人間として自然な感情だ。だが、軍事博物館はそのような感情を利用し、「感動の愛国物語」に仕立て上げる。
お隣の中国の軍事博物館であれば、抗日戦争の戦死者は、中国共産党の活躍や栄光にかならず結び付けられる。歴代指導者の大きな顔写真は、もはや同国の定番となっている。
日本人がこれをみれば、「個々の軍人は悼むべきだが、政治利用しすぎだろう」と思うにちがいない。亡くなった軍人だって、全員、中国共産党を支持していたわけではあるまい。まして、現在の指導部についてどう思っているかなどわかったものではない。
このような観察もまた、国内に導入できる。個々の軍人の戦死は悼むべきである。だが、それが必ずしも「大東亜戦争は聖戦だった」という歴史観につながるわけではない。その間には明らかな飛躍が存在する。
日本国内の議論だけみていると感情的になりやすいが、外国の事例を挟むことで、こうした仕組みも冷静に認識できる。「靖国史観」がどこの国にでもあるというと反発を招くかもしれないが、それは「感動の愛国物語」の中和にもなるのである。
あらゆる国の「感動の愛国物語」から距離を取ること。これは以前から抽象的に指摘されてきた。しかるに今日では、実感をもって実行に移すことができる。これが観光の時代のいいところだ。
「靖国の神々」のコーナーは、世界的にみてかなり珍しい
もちろん、遊就館の独自性も捨て置けない。戦死者の写真や遺書をあれだけ延々と並べた「靖国の神々」のコーナーは、世界的にみてかなり珍しい。
また山田朗も指摘しているように(「時評 靖国神社遊就館の展示とその歴史認識」『日本史研究』533号)、遊就館では兵器があまりに不規則に漫然と並べられている。
大展示室の、人間魚雷「回天」、ロケット特攻機「桜花」、艦上爆撃機「彗星」、「九七式中戦車」、戦艦「陸奥」の副砲などがまさにそうだ。それぞれ重要な兵器ではあるが、これでは相互の関係性や問題点がわかりにくく、教育的効果が薄いだろう。
さらに、遊就館が国立の施設ではない点も重要だ。たしかに、昭和館やしょうけい館、また平和祈念展示資料館などの公的な施設も都心に存在することはする。だが、世界の軍事博物館に比肩するのは、その知名度でも、規模でも、展示物の豊富さ・広範さでも、やはり遊就館でなければならない。それが宗教法人の運営である点が、日本の大きな特徴である。