『マテニ10号』(黄晳暎 著/姜信子・趙倫子 訳)

 朝鮮戦争の開戦から約半年後、南へ一時退却する国連軍は、北から走ってきた貨物列車を北緯38度線付近の駅で銃撃した。その場に遺棄された先頭の蒸気機関車は、鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局)が製造したマテニという形式の10号機であった。

 ただ、その蒸気機関車は本文中に登場しない。本作品は、戦前から現代に至るまでの朝鮮半島における産業労働者の生き方を描くことを主眼としている。その中心にいるのが、日本統治時代から朝鮮戦争時にかけて三代にわたり鉄道員を務めた親子である。

 鉄道員の物語であり、鮮鉄由来の機関車を書名にする作品らしく、日本統治時代の鉄道に関する考証は精度が高い。二代目のイ・イルチョルが乗務して朝鮮や満洲を往来する国際急行の名は、現代日本の新幹線と同じ「ひかり」。作品中の運行ダイヤが実際とは昼夜逆転しているのはご愛嬌だが、その他の当時の鉄道事情に関する記述は概ね正確だ。

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 作中の機関士たちは日本人と朝鮮人とでチームを組んで機関車を運転し、乗務が終われば一緒に飲みに行く。重要な国際急行を朝鮮人機関士だけで走らせることも珍しくない。朝鮮人同士の日常会話では、日本語由来の単語が日本語読みでそのまま用いられていた。

 これらは、当時の朝鮮で広く見られた日常風景だったのだろう。日本支配への反発はあっても、社会全体が抵抗一色というわけではなかった。「財産、家族を捨ててまでして、命がけで日帝と闘う者がいる一方で、日帝の手先となっていくばくかの生活費とささやかな権力を貪る者たちは、それほどにも多かったのである」と著者が嘆息するほど、総督府警察や憲兵にも朝鮮人志願者が多かった。

 そんな世の中で、総督府の鉄道学校に通って機関士を目指すイルチョルは「俺は、技術を身につけようと思う。それがどんな技術であれ、朝鮮人のためになることに使われればと、ただそれだけを俺は願っているよ」と弟に諭す。その言葉には、現下の環境に思うところはあってもそれを受け入れ、前向きに生きようとする当時の朝鮮人労働者の愚直で誠実な心情が感じられる。公的な戦史や外交史を読むだけでは、こうした市井の人々の感覚には思い至らない。

 三代目のイ・ジサンは、その父に憧れて自らも鉄道員を志す。だが、終戦後の朝鮮では、「父のように広い満洲の原野を走りぬけた日々は、もう二度とは戻ってこない」のだ。日本の支配から解放された代わりに、南北を自由に往来できなくなってしまった皮肉……。

 思うようにならない世の中でも、人々はより良い未来を信じて働こうとする。著者は、非武装地帯の草叢で半世紀以上も風雪に耐えてきたマテニ10号機に、支配者や価値観の変遷に左右されなかった近代以降のたくましい庶民の姿を感じたのだろうか。

ファン・ソギョン/1943年、満洲長春生まれ。高校在学中に『思想界』新人文学賞を受賞。韓国海兵隊に入隊し、ベトナム戦争に従軍した経験を元にした短編小説「塔」が朝鮮日報新春文芸賞を受賞、本格的な作家活動を始めた。著書に『懐かしの庭』『客人』『パリデギ』『囚人』など。本書は、2024年国際ブッカー賞最終候補になった。

こむたてつひこ/1975年生まれ。近現代の交通史や鉄道紀行作品多数。著書に『日本鉄道廃線史』『大日本帝国の海外鉄道』他。

マテニ10号(上)

黄 晳暎 ,姜 信子 ,趙 倫子

白水社

2025年12月22日 発売

マテニ10号(下)

黄 晳暎 ,姜 信子 ,趙 倫子

白水社

2025年12月22日 発売