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基本からわかる 憲法9条を変えなくていいシンプルな理由

高橋源一郎✕長谷部恭男「憲法対談」#1

note

法とは「私の言う通りにしてください」というもの

高橋 専門家の人たちとひざを交えて話してみて、本当に何度も目からうろこが落ちました。講座の5回目に元『クローズアップ現代』の国谷裕子さんに来て頂いたのですが、国谷さんは長谷部さんのお弟子さんともいえる憲法学者・木村草太さんと本を出しています。その中で木村さんは「憲法を使いこなす」ことを提唱しています。憲法はわれわれの手の届かない高みにあるものでも、「守ってあげる」ものでもなく、「使うものだ」という視点はとくに驚きでした。

 今日は、日本を代表する憲法学者の長谷部さんに、昨年の講座とはまた違った視点からそもそも「憲法とは何なのか」について、お話を伺っていきたいと思います。

長谷部 いきなり難しいお題が来ましたね(笑)。先ほどの木村さんのお話にあった「憲法は使わなければいけないものである」、というのはその通りです。憲法に限らず、そもそも法というものは「道具」です。どういう意味かというと、本来人間はどう行動するかとかどう生きていくか――例えば昼ご飯に何を食べるか、職業として何を選ぶかなど、すべて自分で判断して、自分で行動に移すのが普通です。ところが、法というのは「自分で判断しないで、私の言うとおりにしてください」と言います。例えば道路交通法では、自動車を運転する時に道の左側を通ってくださいという。「自動車を運転する時に右を通るか、左を通るか自分で判断するのはやめてください、私の言うとおり、左を通って下さい」という。なぜなら、「私の言うとおりにしたほうが、あなたが本来すべきことをより効果的にすることができます」というのが背後にある理由です。みんなが左を通れば、事故を起こすこともなく、スムーズに安全に自動車を運行することができる。

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 ところが、時に法律の言うとおりにすると、本来すべきことにならないぞ、ということがあります。例えば「市役所の周りではビラを撒くのをやめてください」という条例があるとします。市役所のようなたくさん人が集まるところで勝手にビラを撒かれたりすると街並みも汚れるし、みんな迷惑だというのが条例の言い分です。表向きはそうですが、しかし裏には別の理由があるかもしれません。市役所の前でビラを撒く人たちには現在の市の政策に含むところがあるだろうし、やめてほしいなと。建前としては「市役所の前はきれいにしなきゃ」といいつつ本当の狙いは、政策批判を抑え込むための条例になっていることはあり得るわけです。

©平松市聖/文藝春秋

 そういう時に、「ここは条例の言うとおりにしないで、人間本来の姿に立ち戻ったほうがいいんじゃないのか」と考えることもできるわけです。人間は本来、どう行動すべきかは自分で判断して自分で決めるものだったはず。こうした場合に憲法21条を根拠に、「私としては表現の自由を行使する。ビラを撒いてもいいはずだ」――、そういう判断もあり得ます。そういう意味で憲法は道具なんですね。

「良識」で憲法を道具として使いこなす

高橋 ありがとうございます。憲法はおおまかにいって中身が2つ、人権に関する項目と統治機構の2階建てになっています。ヨーロッパで何百年もかけてたどり着いた人権に関する事項には、今の近代的な市民的自由はみんなで認めましょうというバックグラウンドがあるんですね。長谷部さんは、憲法はもちろん条文も大事だけれども、それのバックボーンとなっている「良識」――近代市民社会に生きている人間にとって「これは当然必要だよね」というものに、何かがあったら立ち戻ればよいというお考えですよね。

長谷部 「良識」というと偉そうな感じがしますけど(笑)、そのとおりだと思います。