『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』に『3年B組金八先生』といったいくつもの名作に出演し、フォークシンガー・俳優として第一線で活躍を続ける武田鉄矢さん(76)。4月からは『101回目のプロポーズ』の35年ぶりとなる続編『102回目のプロポーズ』の地上波放送も始まった。

 いまや国民的俳優の武田さんだが、そのキャリアは決して順風満帆なものではなかった。1974年に海援隊として『母に捧げるバラード』で紅白歌合戦への出場を果たすも、そのわずか半年後には人気が急落。武田さんは「ユーミンもそうですし、ニューミュージックの人たちが羨ましくて」と当時を振り返る。絶頂からどん底までを経験した武田さんが明かす、“芸能界の恐ろしさ”とは。

デビュー当時の海援隊(写真提供=株式会社ネクストワン)

紅白出場の絶頂から一転、妻と皿洗いの日々

 1973年、海援隊として発表した『母に捧げるバラード』が100万枚を超える大ヒットとなり、武田さんの名は一躍全国に知れ渡った。翌74年にはNHK紅白歌合戦への出場も果たし、フォークシンガーとして絶頂期を迎える。しかし、その栄光は長くは続かなかった。

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 武田さん自身の分析によれば、学生運動の熱が冷めるとともに「反抗と旅立ち」をテーマにしたフォークブームは急速に終焉を迎えたという。代わりに台頭してきたのが、松任谷由実さんを筆頭とする「センスのいい、ニューミュージックのシンガーソングライター」たちだった。

 そのあおりを受け、紅白出場を果たした海援隊はわずか半年後に1000人規模のホールに観客が10人単位しか入らないという事態に陥った。「真っ逆さまですよね。芸能界は怖いです」と武田さん。当時の給料は12万円ほどだった。家賃を支払うと手元にはほとんど残らず、結婚して間もない妻と居酒屋で皿洗いをして糊口をしのいだこともあったという。

4月1日から『102回目のプロポーズ』の地上波放送も始まった ©三宅史郎/文藝春秋

 そんな苦しい日々の中、アリスの谷村新司さんとの出会いが転機となる。谷村さんの誘いで事務所を移籍し、ニューミュージックのミュージシャンを揶揄し、怒りをぶつけようと作った『あんたが大将』がヒットの兆しを見せ始めた頃、武田さんのもとに耳を疑うようなオファーが舞い込んだ。

 巨匠・山田洋次監督からの映画出演の依頼だった。

 共演者は高倉健さんをはじめとするスター俳優ばかり。武田さんは「ウソとしか思えなくてね」と、当時の驚きを隠さない。その頃の武田さんは芝居経験がなかったからだ。しかも、その役は2人が断った後の「代役」だった。

 フォークシンガーとしての挫折と、予期せぬ「代役」から始まった俳優業。いくつもの偶然も足掛かりにして、武田さんはここから大スターへとのし上がっていく。


『幸福の黄色いハンカチ』の撮影で今でも忘れられないという、高倉健さんにナンパをけしかけた夜の思い出、そして放送が始まった『102回目のプロポーズ』の裏側や自らをモノマネしている霜降り明星・せいやさんへの思いなど、インタビュー全文は下記からお読みいただけます。

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