かつて江戸の町のヒーローとして人々の喝采を浴び、歌舞伎や講談の演目にもたびたび描かれてきた町火消。「粋でいなせ」と称されたその生き方と技は、令和の時代にどのように受け継がれているのか。江戸消防記念会専務理事で、第一区総代の山口新次郎氏が語る。
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火消しや鳶は「生き方」
「火消って、鳶って、なんなんですか?」
そう聞かれることがこれまで何度もありました。「明暦の大火が起きて……それで享保3年に町火消ができて……」といった歴史の話なら、いくらでも説明できる。けれど、私は火消や鳶というのは、単なる職業や制度ではなく、生き方そのものだと思っています。
私の家は3代にわたって町鳶で、霊岸島濱町(れいがんじまはまちょう、現在の中央区新川)に生まれました。霊岸島濱町は二番組内千組で、現在の区分けでいえば第一区十番組にあたります。親父は千組組頭を務め、江戸消防記念会の専務理事も務めました。
私は1964年5月の生まれですが、翌年1月、まだ1歳にも満たないうちに、おふくろに抱かれて出初式に出ていたそうです。それから今日まで、風邪を引こうが、毎年欠かさず出続けてきた。そんな家で育ったから、この道に進むことはある意味で必然でした。おじいさんも親父も、私と同じようにこの道を歩いてきた。親父が自分の半生をまとめた書を読むと、時代こそ違えど辿っている道筋があまりにも重なっていて、私は2人の着せ替え人形みたいだな、と思うこともあります。
「我慢・勇気・伊達」
江戸消防記念会に入って必ず覚えるのが木遣りです。最近だと東京五輪の開会式や龍角散のCMで聴き覚えのある方もいるかもしれません。木遣りは厳密には「歌」ではなくて、元々は地業(建物の基礎を置くための地固め)や木材など重量物の運搬作業の掛け声として歌われたものでした。だから「木を遣る」と書くわけです。町火消の時代には、火事場でも作業歌として歌われていましたが、町お抱えの鳶がお祭りを始めとした様々な地域行事に参加していたため、次第に祭礼やご祝儀に歌われるようになりました。現在は江戸消防記念会が「江戸の伝統」として継承し、1956年には、東京都の無形文化財にも指定されました。
木遣りには楽譜や歌詞カードなどはなく、すべて先輩たちからの口伝で伝わります。そのため誰を師匠に覚えたかによって調子、間拍子、声の高低がぜんぜん違う。私は幼い頃から祖父と親父の木遣りをそばで聴いて育ちましたから、ふたりの節回しや間合いが自然と体に染みついている。気づけば自分の声にも、その響きが混ざっているんです。
生き方といえば、我々町鳶・町火消にとって、彫物(ほりもの、入れ墨)を入れることは、この世界で生きるうえでごく当たり前のことでした。今は「入れ墨=反社会的勢力」というイメージが定着してしまっていますが、町火消を描いた錦絵を見れば、彫物が入っているものが多いでしょう? 彫物は町火消・町鳶として生きることの覚悟の証なのです。ちなみに江戸時代は半纏も含めて大きな柄が描かれることが多く、町火消の彫物も遠目に見てすぐわかるような大柄が基本です。決まりもあって、腕の七分より先、膝から下には絶対に入れない。もちろん、人様の前で晒すのも絶対だめ。作業のために腕を上げた瞬間にちらりと半纏から覗く、それで十分なんです。
現在江戸消防記念会には、会員の中で彫物を入れた者たちによって組織された「江戸消防彩粋會(さいすいかい)」という会があります。江戸町火消の文化・風俗・技芸を継承し保存していくための集まりで、同時に、火消の精神である「我慢・勇気・伊達」という心意気を受け継ぐ場でもあります。
※この他にも、町火消たちが受け継いできた伝統が語られています。約6800字の全文は月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2026年4月号に掲載されています(髙柳博一、山口新次郎「日本の伝統町火消 江戸の華として生きる」)。グラビア企画「令和に生きるヒーローたち『江戸の華』」 もぜひご覧下さい。



