昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2018/09/02

genre : エンタメ, 芸能

高木さんに呼ばれてギターの代役、それでドリフメンバーになったの

―― その後、パップ・コーンズに移籍されるんですよね。

仲本 うん。ジェリー藤尾さんの『遠くへ行きたい』が大ヒットして、営業用のバンドを作ることになったんです。それで前座の歌手をオーディションするというので、行ったの。20人くらいの応募があったみたいだけど、どういうわけか僕が選ばれた。今になって考えてみると、僕がまだ学生だったから、安い給料ですむと思ったんじゃないかな(笑)。で、そこに高木ブーさんがいた。

 

―― メンバー同士の出会いの話って、ファンとしてはワクワクしますね。高木さんの印象はいかがでしたか?

仲本 うーん、特に印象はないんだけど、なんか太った人がいるなあって(笑)。でもね、バンド自体は音楽のレベルがすごく高かった。そのころ、コーラスをやるバンドはそんなになかったんだけど、そんな中でフォー・フレッシュメンなんかの曲を歌ってたからね。僕も大好きで、大学を卒業するころまでやってました。

―― その高木さんがまず、いかりやさんに誘われてドリフターズに参加。仲本さんは高木さんの仲介でドリフに参加されるんですよね?

仲本 そう、急遽ギターの代役で呼ばれたんですよ。たしか大学を卒業して就職しようと決めていた頃だったんじゃないかな。ドリフにはすでに、かつてのバンドで一緒だった加藤もいてね。で、結局そのままドリフメンバーになったの。

 

「俺が話をするから」って、いかりやさんが家に来た

――ドリフに入ることを決めたことに、お父様は大反対だったとか。

仲本 そりゃそうだよ。当時はギター持ったら不良と言われた時代でさ。大学まで出してバンドなんてとんでもない。親としては、何のために大学に行かせたんだって話だよね。その親父を説得したのが、いかりやさん。僕はいかりやさんに「たぶん説得は無理だと思うよ」って言ったんだけど、「俺が話をするから」って自宅まで来た。

―― どんな会話があったか覚えてますか?

仲本 いや、最初は親父といかりやさんの二人っきりで話してたから分かんない。僕は、あとから部屋に呼ばれてね。そこで、いかりやさんが「俺が辞めるときは一緒に辞める。それまでは責任持つから、ぜひともドリフターズに参加させてくれ」って頼んでくれて、親父も折れた。まあ、いかりやさんのあの顔見たら、うんとしか言えないよね(笑)。

 

―― ドリフ草創期の名場面ですね……。お父様は職人さんだそうですが、厳しい方だったのではないですか?

仲本 親父の言うことは絶対だったね。頑固一徹の靴職人で、休みなく朝から晩まで働いてました。とにかく厳しくて、反発しようと思ったことなんてなかったな。今から思えば、一度だけ逆らったのが「ドリフに入る」って言った、あのとき。