1960年代以降に相次いだ身代金誘拐事件では、「報道協定」が当然のように結ばれるようになった。

 被害者の安全を守るため、警察と新聞・テレビが事件解決まで報道を控えるという取り決めである。その協定が導入されるきっかけとなったのが、1960年(昭和35年)に東京で発生した「雅樹ちゃん誘拐事件」だ。

写真はイメージ ©getty

 犯人の男は、事件を詳細に報じた新聞各紙を読んで精神的に追いつめられ、7歳の少年を殺害。男の車から発見されたのは、米俵にくるめられていた子どもの遺体だった。

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エリート歯科医はなぜ少年を手にかけたのか

 犯人は本山茂久(当時32歳)。新潟県の富裕な農家に生まれ、東京歯科大学を卒業後に歯科医として成功を収めたエリートだった。外車を乗り回すほど繁盛していた医院だったが、愛人との生活で借金は180万円にまで膨れ上がり、別居中の妻からは慰謝料まで請求される羽目になった。

 窮地を脱しようと本山が目をつけたのが、同年4月にフランスで起きた自動車メーカー会長の孫の誘拐事件だった。会長が莫大な身代金を支払ったと知り、これを模倣しようと考えたのである。

 1960年5月16日朝、本山は目黒駅で慶應義塾幼稚舎に通う子供を物色し、たまたま前を通りかかった雅樹ちゃん(7歳)に声をかけた。

「キミのお母さんに頼まれ、迎えに来たんだ」——言葉巧みに車へ誘い込み、愛人の留守宅へ連れ去った。

 身代金の要求は計3回にわたったが、いずれも失敗に終わった。家政婦に現金を持たせても、その後ろを尾行する女性警官の姿が常に見えた。追いつめられた本山に、さらなる追い打ちをかけたのが新聞各紙の過熱報道だった。

 事件の詳細を伝える見出しが夕刊に躍り、もはや逃げ場はないと感じた本山は18日午前1時ごろ、睡眠薬で朦朧としていた雅樹ちゃんに都市ガスを吸わせ、命を奪った。

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 なぜ少年を誘拐してまで金に執着したのか? 発端となった「愛人の存在」とは? 本編は以下のリンクからお読みいただけます。

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