“終わるはずのない夢が、次々についえていく。交わした約束は、露と消えていく。”
これは15年前にとある音楽雑誌の表紙を飾ったコピーの一部。当時NUMBER GIRLやミッシェル・ガン・エレファントといった一時代を築いたバンドが次々と解散し、その事を少し嘆きつつそれでも新しい時代は訪れるんだよ、という内容なのだけど、時代の転換期やひとつの事が終わりを迎えたときの感慨、センチメンタルな気分が絶妙に言い表されていて個人的に名文だと思っている。また汎用性も高く、ツイッター上では構文化して(ネタも含め)使われることが多い。
選手の引退や戦力外通告でそんな時代の変わり目を感じるこの季節。31年前の今頃にも、全ての大洋ファンが突然「終わるはずのない夢の終わり」に直面する事件があった。1987年10月3日の巨人vs大洋25回戦。横浜大洋ホエールズが後楽園球場で試合を行う最後の2連戦の初戦だった。
孤高の存在だったエース遠藤一彦
大洋の先発はエース遠藤一彦。ここまで14勝7敗、とくに8~9月は7勝(2敗)を挙げて前半戦の不振を一気に挽回し、勝ち数で桑田真澄、小松辰雄と並んでいた。この日も優勝目前の巨人打線を4回まで1安打無失点に抑え、このまま行けば15勝目間違いなし、という雰囲気が日本テレビの中継映像からもひしひしと感じられた。
よく語られる話だが、当時の多くの大洋ファンの望みは巨人に勝つこと、序盤戦で1回くらいは首位争いしてくれること、高木豊や屋鋪要、C・ポンセらがタイトルを獲ること、そして遠藤一彦の最多勝だった。なかでも弱小チームにあって球界屈指のエースとして君臨する遠藤は大げさではなく希望の星だった。その孤軍奮闘ぶりを象徴しているのが最下位に沈みながら2年連続最多勝に輝いた84年の成績で、37試合に先発して17勝17敗、投球回数276.2、奪三振208、完投18。これらの数字すべてがリーグ最多であり、勝ち負けが同数の最多勝はリーグ唯一の記録である(パでは2001年に松坂大輔が15勝15敗で記録)。この年、仮にシーズン最終戦で勝って単独最多勝を決めなければ16勝17敗、または18敗となり、日本はもちろんメジャーでも例のない負け越しでの最多勝(タイ)を樹立するところだった。
当時の遠藤がどれだけ孤高の存在だったか。それは大洋の選手としては稀有な単行本を最盛期の1986年に著していることからも窺える。『江川は小次郎 俺が武蔵だ!』(KKベストセラーズ刊)がそれで、かつて格上の存在だった江川をライバル視するに至った経緯や、有名なW・クロマティに対する「頭チョンチョンポーズ返し」の裏側、今後の野望など遠藤一彦バラエティ・ブックとも言える一冊。さらには長身の足長でハンサムなルックス、バッティングも良くて足も速く、オフのプロ野球オールスター大運動会では毎年のように屋鋪要と共に短距離走で他をぶっち切っていた遠藤。何から何まで完璧なスターだった。
しかしその完璧なアスリートっぷりが、まさかあんな事態をもたらすとは夢にも思わなかった。その試合の5回、巨人セカンドの篠塚のエラーで一塁に出た遠藤は続く一番・高木豊のレフト線ヒットで一気に三塁を狙う。実況が「遠藤は二塁を回って三塁へ!」と叫んだとき、両翼90メートル(実測87メートルちょいというのが公然の事実だった)と狭い後楽園でそんな無理をしなくても……と一瞬思ったが、リードはわずか1点、足に自信ありということで果敢に走ったのだろう。だが三塁上のクロスプレーを捉えんと中継カメラが切り替わった瞬間、驚愕の光景がテレビに映し出された。
遠藤が、左足でケンケンしながら必死に三塁に向かっている――。