「もうダメかもしれない」何度も訪れた夫婦の危機
由実は結婚後の1978年、正隆のプロデュースにより、松任谷由実名義で初めてのアルバム『紅雀』をリリースした。正隆はこのとき、彼女のアルバムを年2回つくると決め、以来、ほかのアーティストのアレンジやプロデュースにも追われ多忙をきわめた。そのなかで、松田聖子に由実が呉田軽穂の名で曲を提供し、正隆が編曲した「赤いスイートピー」(1982年)などの大ヒット曲も生まれる。
由実は80年代から90年代初めにかけて熱狂的な支持を集め、アルバムはことごとく大ヒットする。1990年の『天国のドア』は、日本人アーティストのアルバムでは初の200万枚の出荷を記録した。しかし絶頂に達したあとには、必ず停滞の時期が訪れる。由実も例外ではなかった。「ユーミンは終わった」とあちこちで書かれ、さすがに彼女も応えていたと正隆はのちに振り返っている(※4)。
絶頂から落ちていく恐怖のなかに立ちながら、2人はこれから先をどう進んでいくべきかという話を毎日していたという。ここから「戦友」という感覚がお互いのあいだに生まれていく。それでも、夫婦としての危機はこれまで何度もあったようだ。由実いわく、10年ほど前にも《もうダメかもしれないという時が訪れ》たが、《実際に別れるとなった時に話し合わなければいけない、会社や権利関係の決めごとを全部テーブルにのせてみたんです。そしたら、彼も途方もなく面倒に感じたみたいで無期延期になりました》(※5)。
正隆の還暦に歌った「雨の街を」
夫は夫で、40年にわたって自分が妻のプロデュースを続けていることが、彼女の可能性を狭めているのではないかと悩むところもあるという。彼に言わせると《僕が由実さんのプロデュースをやることによるメリットは五一%、デメリットは四九%》。メリットが少しだけ上回るのは、自分がプロデュースを手がけることで、彼女に多少安心感が生まれるからだとか(※2)。
由実が正隆に絶対の信頼を置いていることは間違いない。音楽生活が40年を超え、年齢も還暦をすぎたころ、《彼は人前で容赦なく私を叱ります。年齢的にも、立場的にも、伸びしろが少なくなってきた私にとっては、とてもありがたい》、《私が感じる彼のやさしさは“厳しさ”で、心から感謝しています》と語っている(※5)。
正隆が2011年、由実が2014年にそれぞれ還暦を迎えたときには、放送作家の小山薫堂の演出により、本人には内緒で準備してサプライズパーティーが開かれた。正隆の還暦祝いでは、パーティーの終わりに由実が1曲だけ「雨の街を」を弾き語りしている。先述のとおり、2人にとって思い出の曲だ。このとき、彼女が夫に「会えてよかった」と伝えて弾き始めたピアノの上には、牛乳瓶に挿したダリアが置かれていた(※5)。
※1 ムッシュかまやつ『ムッシュ!』(文春文庫)
※2 松任谷正隆『僕の音楽キャリア全部話します』(新潮社)
※3 延江浩『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』(講談社)
※4 『週刊文春』2016年12月8日号
※5 『AERA』2015年1月12日号