「なんで私のお客さん取ったの?」
たとえば、お客さんが手を挙げて売り子を呼んだ時、あいにくビールが売り切れて補充しなければならなかった時。お客さんが「じゃあ、その後ろの子のビールでいいや」と代わりの売り子からビールを買ったとしましょう。
するとビールを売った売り子は、のちに売り切れだった売り子から「ドーン!」とタルをぶつけられます。「なんで私のお客さん取ったの?」というわけです。お客さんにとってはどうでもいい話なのですが、なかにはそんな怖い売り子も実在するのです。まるでプロ野球の「報復死球」のような話ですね。
売り子の世界はゴリゴリの縦社会です。売り子たちは受け持ちのエリアが決められており、自然と「常連さん」が生まれます。先輩が売り子を引退する際、常連さんが後輩へと引き継がれることもよくあります。他社の常連さんも顔を覚えていきます。
先輩から紹介してもらった常連さんのなかに、何十年も東京ドームに通い続けているご夫婦がいました。毎年、毎年同じ席に座られて、旦那さんだけビールを買ってくださるんです。奥さんがいる日は2~3杯に抑えているのに、お友達と一緒の日はもっとたくさん注文して。とても素敵なご夫婦でした。
いろんなお客さんとお話ができて、それぞれの人生が透けて見える。それが売り子の醍醐味なのだろうなと感じます。
いろんな野球ファンとお話しするうちに、球団によってファンに特徴があることがわかってきました。
たとえば、巨人ファンなら序盤で大量失点して負けそうになると、すぐに帰ってしまいます。売上的にはすごく困るので(笑)、できる限り接戦になってほしいと願っていました。
ヤクルトファンならクーラーボックスなどを持参する「持ち込み」が多く、売上に響いて泣いた思い出が残っています。中日ファンは動員数が寂しく、「もっと中日ファンが増えてほしい!」と祈っていました。阪神ファンは動員が多くて勝っている試合は気前がよく、広島ファンは動員が多いうえに勝っても負けても飲んでくれました(すべて私の勝手なイメージです)。DeNAファンは……ごめんなさい、あまり記憶に残っていないのですが、スターマンがかわいかったです。
ちなみにビールが一番売れるのは、実は巨人戦より夏場に開催される都市対抗野球大会でした。東京ドームで1日3試合も組まれて、関東の大企業が出場すると動員数もものすごいんです。企業によっては金券が配られ、社員の方がどんどんビールを買ってくれます。いかにも重役風の方が「みんな、飲みな!」と大量注文してくださることもありました。売り子にとって最高のイベントです。
ビールを売るために必要なもの
東京ドームでの売り子は過酷な体験でしたが、今の仕事に生きているとも感じます。
売り子が背負っているものは、どの人もほとんど同じ。そんななか、私から買ってもらうためには私自身を売り込まなければいけません。歩き方から研究して、終了間際には常連さんに挨拶回りして営業する。常に人から見られるなか、自分をアピールすることは今となんら変わらないなと感じます。売り子をしていなかったら、今の仕事はしていなかったのでしょうね。
そして、もうひとつ私のなかで変化がありました。それは、野球場という空間が大好きになったことです。
お客さんがたくさん入ると、野球場って不思議と暖かくなるんです。私がおもに担当していた2階席には、モワモワ……と何かが上がってきます。そんな熱気に包まれて汗をかきながら飲むビールは最高です。今もルールを完璧に覚えたとは言いがたい私ですが、おいしい焼き鳥とビールコップを手に持って野球を見るのが大好きになりました。かつてドラえもんを飛ばした野球中継のテレビの中には、こんなに広い空間が広がっていたなんて……。
そんな話を書いていたら、また野球場に行きたくなってきました。それではみなさん、また野球場でお会いしましょう!
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