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90年代の文系野球バカ台頭のベースとなるのは「野球バカは言葉を持っていい」だった

 もうひと団体紹介しよう。こちらも90年代、彗星のごとく現れ、僕に多大な影響を残した野球バカだ。その名を「パリ同」と言う。正式には一橋大学パ・リーグ同好会。『マーキュリー・スポーツ』という会報を発行していて、ミニコミ出身ライターとしては(僕は『中大パンチ』というキャンパス誌出身だ。そこに書いたコラムが『宝島』誌の編集者の目に留まり、80年、在学中に商業誌デビューした)「おお、こういう連中が出たか!」という感慨があった。「パリ同」の連中とは日暮里「絵理花」で会ったのが最初だったか、どっかの球場だったか。頭はいいのに、独特のねじれ具合の加わった連中だった。光を拒(こば)み、パ・リーグとアイスホッケー(日本リーグ)を好んでいた。

 ※その後、僕がアイスホッケーチーム「日光アイスバックス」のファンが嵩じ、チームスタッフになったことでも、いかに「パリ同」と親和性があったのかが知れる。僕は『マーキュリー・スポーツ』を読んで、右も左もわからない日光霧降アイスアリーナへ出かけてみるのだ。

 手元に『マーキュリー・スポーツ』の98年1月号がある。目次を見ると「さらば、西崎幸広」(パットナム榎本)、「高橋ユニオンズ伝説」(レッカ松本)、「ロッテ ダメ監督列伝」(マドロック小林)、「いざゆけ若鷹軍団」(脱税藤井)、「日光道中記」(ウラジミール・ドラムスコイ)、「アイスホッケーコラム 長野五輪直前企画」(シュルジー檜山)と濃い記事が並んでいる。またペンネームがいいでしょう。もちろんパットナム、レッカ、マドロック、シュルジーは往年の助っ人外国人選手。

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 ※このうちサル・レッカだけは高橋ユニオンズ、トンボユニオンズなので僕も見たことがない。捕手だったらしい。

 90年代の文系野球バカ台頭のベースとなるのは「野球バカは言葉を持っていい」だった。後にインターネット普及で自明のことになるが、一方的にプロOBや記者の出してくるものを受け取るだけじゃつまらない。そういうのではすくい取れない、そういうのと違う「野球の言葉」が必要なのだ。野球バカは言葉を持っていい。野球バカはデータを取っていい。野球バカはずんずん行動していい。『マーキュリー・スポーツ』を見ているとそういう気概が横溢している。

パリ同の機関誌「マーキュリー・スポーツ」。光を拒む文系野球バカの巣窟だった。頭はいいのにねえ ©えのきどいちろう

時代が変わっても、彼の言葉は胸に突き刺さる

 巻頭掲載の「さらば、西崎幸広 ~わが青春の背番号21~」を読んでみよう。98年1月といえばファイターズのエースとして長年、活躍してきた西崎幸広が西武へトレードで移籍したオフだ。筆者のパットナム榎本氏は「自らの青春そのものであった投手」と決別を宣言している。今、20何年経って読むと重層的だ。「遠い青春の只中にいるパットナム榎本」が「自らの青春そのものだと思い込んでいた投手」と決別し、逆にその甘い感傷で「青春をキラキラ輝かせて」いる。

「ああ、言いたいことは山ほどあるのに、何をどう話していいかわからない。ひとつの時代が終わった。ファイターズはもはやかつてのファイターズではなくなった。それが良いとか悪いとか、そういう話をしているのではない。自分なりに心に一区切りを付けなければならない時がやってきた。そういうことだ。

 僕は西崎幸広について語ろうとしているのだ」

「(前略)印象に残るシーンがある。1988年、開幕戦(東京ドーム)の8回表。相手はオリオンズ、ゲームはファイターズが2点リードのまま終盤を迎えていた。ヒット3本で1点返されたものの、2アウト、先発・西崎は、初めての開幕投手を見事完投で務め上げる寸前だ。ランナーは1・3塁。バッターはビル・マドロック。カウント2‐1から投じたのは、真ん中やや外よりのストレート。マドロックは見送った。手が出なかったのだろう。よし、チェンジだ、とばかりマウンドを降りかかる西崎。しかし、小林一夫主審(ママ)の判定は『ボール!』。西崎が血相を変える。捕手・田村も納得が行かない様子だ。何しろ、マドロックはすでにあきらめ顔で打席を出かかっていたのだから。しばし、マウンド上で怒りの表情を見せていた西崎が、気を取り直して投じた次の球は、なんとほぼ同じコース、さらに真ん中近いところへのストレート。ところが判定はまたも、『ボール』(後略)」

「そういうことだ」の口吻(こうふん)に村上春樹調が感じられる。ただパットナム榎本は本気だ。彼は高田繁政権下の「覇気のない」ファイターズに嫌気がさしていたらしい。が、近藤真一(後に「真市」。中日で活躍した)の外れ1位で入団した西崎に惚れ込む。西崎はカッコ良さと儚(はかな)さが同居したスターだった。引用した88年開幕戦のピッチングは僕も覚えている。西崎はマウンドで激怒するのだ。マウンドを降りて球審につかみかからんばかりに抗議する。高田監督も出てくるが判定は覆らない。その時点でリリーフを立てる選択肢もあったが、西崎は続投。で、四球、四球、四球で2連続押し出し、チームは逆転負けだった。

 酷い試合だったけれど、パットナム同様、僕も胸が熱くなった。西崎はしびれる。面白い。プライドがある。あの、ムキになって投げた同じコースのストレートを見たか。ムキになるピッチャーだけが一流になれる。

東京の屋根の下に住む若い僕らは幸せ者さ ©えのきどいちろう

 パットナム榎本の記事はそれから阿波野秀幸とのライバル関係に触れ、故障がちで「ガラスのエース」と呼ばれたことに触れ、彼が見続けてきた「わが青春の背番号21」物語を紡ぐ。そして、ああ、こんなことを書いているんだ。時代が変わっても、彼の言葉は胸に突き刺さる。これが刺さらなかったらファイターズファンじゃないと思う。

「西崎がいるうちに、優勝したい。西崎がいるうちでなければ、優勝できまい。僕に限らず、ファイターズファンの多くは、そう考えていたのではないか。山田久志が阪急を、東尾修が西武を優勝させてきたように、西崎なら、ファイターズを優勝させてくれるに違いない」

 その思いは永遠に遂げられない。西崎はFA権を取得した翌年に西武へトレード移籍したのだ。パットナム榎本は記事のなかで永遠に傷ついている。20何年前の、青春の只中のパットナム。彼の夢は破れたんだ。もう取り返せない。西崎はその後、何と西武で優勝を経験する。FA宣言をめぐって球団と西崎の関係がこじれ、修復不可能に至っての悲しい移籍劇だった。

西崎幸広 ©文藝春秋

 文春野球コラムペナントレースが終わる。僕は文春パがHIT数も少なく、活気ないのがずーっと気になっていた。パ・リーグにはむちゃくちゃ面白い連中が棲みついている。僕の野球バカ歴はそういう「とんでもないバカ」と出会い、影響し、影響され、なんか輪をかけてバカになっていった道筋だ。書ききれないけど、もっといっぱいいる。「桃井会」も「パリ同」も無数にいるバカのひとつだ。みんな野球のなかで暮らして、野球の外では窮屈な思いをしている。もっとそれが生かしたかった。

 パは最高なんだぜ。ファイターズはきっといつか甦るぜ。

 友よ、春になったらまた球場で会おう。約束だ。

ソラミミスト、安齋肇さんに発注した「ビッグバンTシャツ」。僕が直で依頼したんよ。ちゃんと球団公式グッズ! ©えのきどいちろう

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