なぜ、徳川家康は豊臣政権の「実効支配」を続けられたのに、「戦争」を求めていたのか?

 

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「このたびの重陽の佳節、(ひで)(より)様のご健勝とご家門の弥栄を、心よりお祝い申し上げます。太閤殿下のご遺志を継がれ、御家中を治められるお姿、誠に頼もしく存じます。内府も微力ながら、豊臣家の繁栄のために尽力する所存にございます」

 前々回、慶長4(1599)年9月、大坂城の本丸に居た豊臣秀頼に重陽の賀を述べるために、徳川家康が伏見城からやってきたことを述べました。秀頼への口上こそ、ここに示したように丁重なものでしたが、ここから家康は豊臣政権の実権を手中に収めていきます。

 まず9月26日、大坂城西の丸にいた秀吉の正室、北政所が京都に移り、その後に、家康が入城します。家康は伏見から兵を呼び寄せ、さらには西の丸に天守閣も築きました。伏見城にも徳川の留守部隊が控えています。つまり、秀吉政権で政務の中心であった伏見城と、権威の中心であった大坂城を、ともに家康が押さえた形になったのです。

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source : 週刊文春 2025年10月30日・11月6日号