慶長5(1600)年6月16日、徳川家康は大坂を発ち、会津征伐の兵を東に進めます。このとき、家康に従った主な武将は福島正則、池田輝政(東三河15万石で、家康の次女督姫の婿)、細川忠興、黒田長政(官兵衛の子)、浅野幸長(長政の子)、加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍の一人で、伊予10万石)、藤堂高虎、蜂須賀至鎮(家政の子)。そして東海道筋に所領を持つ田中吉政、中村、堀尾、山内といった面々が顔を揃えています。この会津征伐軍のメンバーが、わずかな例外を除いて、関ヶ原で徳川方として戦うことになるのです。
この会津征伐軍の人選自体、家康の意向が強く働いていたと考えます。それが最もよくあらわれているのが、加藤清正への対応でしょう。この会津征伐軍には、福島、細川、黒田、浅野など石田三成襲撃事件のメンバーがほぼそっくり参加していますが、清正の名前だけがありません。清正は、島津家の内乱(庄内の乱)で家康の不信を招く動きを見せていました。そのため、家康は清正の上洛を禁じ、会津征伐にも参加させず、関ヶ原の戦いでも、国元の熊本にとどまるよう命じたのです。
会津征伐自体、その前の加賀征伐と同様、家康による「いちゃもん」と言われても仕方のない、強引な戦争への誘導でした。その家康の「無茶ぶり」ともいえる呼びかけに即座に応じたのが、この会津征伐軍のメンバーだったのです。考えてみてください。家臣皆に戦支度をさせて国元から大坂へ呼び集めるのがどれほど手間のかかることか。特に遠国にいる大名たちは、家康の求めに速やかに応じる手はずを、万端整えていたと考えねばなりません。この時点で、彼らの念頭には「家康様の天下」があったのでしょう。
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source : 週刊文春 2025年11月20日号






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