新豊臣政権が家康排除を打ち出した「内府ちがいの条々」によって戦いの構図が変わった。

 

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 慶長5(1600)年7月11日の石田三成・(おお)(たに)(よし)(つぐ)の佐和山会談から活発化した「クーデター」は、(もう)()が加わり、(まし)()(なが)(もり)()(つか)(まさ)(いえ)(まえ)()(げん)()の三奉行を抱き込んで、一気に「豊臣政権」を制圧しました。

 ここで、ひとつの問題が生じます。そもそも6月16日に大坂を出発した時点では、徳川家康率いる会津征伐軍は、いわば正式な「豊臣軍」でした。しかし、三成らが主導する「新豊臣政権」としては、会津征伐軍は「賊軍」でなければなりません。

 その大転換を宣言したのが、7月17日に出された「内府ちがいの条々」でした(下の写真参照)。

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source : 週刊文春 2025年11月27日号