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父は24時間立川談志でした|松岡ゆみこ×松岡慎太郎【誌上初対談】 

談志、志ん朝、小三治… 次の名人を探せ! 文春落語「名人噺」

「週刊文春」編集部
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「落語とは、人間の業の肯定である」という哲学を持っていた談志。稀代の天才落語家の最後を支えた娘と息子が、プライベートでの父の姿を語る。

 

(まつおかゆみこ 1963年生まれ。タレント、クラブ経営者。著書に『ザッツ・ア・プレンティー』。YouTubeで「ゆみチャンネル」(https://www.youtube.com/channel/UC-k5zaL9VEvgjeo3jMZROkQ)を開設。)

 

(まつおかしんたろう 1966年生まれ。明治大学卒業。2000年から談志の個人事務所「談志役場」の社長を務める。)

――姉弟で「父・立川談志」のことを語るのは、いつ以来でしょうか。

ゆみこ いわゆる公の場という意味では、父の葬儀直後の記者会見以来かな。

長女のゆみこさん

慎太郎 そう考えると、あっという間の10年――。

長男の慎太郎さん

ゆみこ 会見でも「ご家族にとってどんなお父さんでしたか」と聞かれたんですけど、皆さんがイメージする立川談志がそのままドンといる感じなんですよ。

慎太郎 「家では別の顔が」という答えを期待されるんだけど、オンもオフもなく「24時間立川談志」。

ゆみこ 私が学校に行くときでも、「車に気をつけな。お前たちが気をつけてもバカな運転手はいるからな」とかね。これってまさに談志の「了見」だよね。

慎太郎 だから父のお弟子さんに対して、僕らがつい“お兄ちゃん”感覚でじゃれついたりすると、「こいつはオレの弟子であって、お前の弟子じゃない」と、ピシリと言われましたね。

ゆみこ 相手が子どもだからって、接し方を変えたりしない。人格を持った小さな大人として扱うのね。

 談慶さんの息子さんが小さい頃、打ち上げだか新年会に連れて来られたことがあって、そのときウチの父に「ビール飲むか?」って言われたんだって(笑)。

慎太郎 もちろん、実際に飲ませるつもりはなかったと思いますけど。相手が文春さんですから、ここはシンチョウに――。

――さすがです(笑)。そんなお父さんに、ゆみこさんは殴られたことがあるとか。

ゆみこ 私、15歳の頃、少々グレまして。といっても毎晩新宿のディスコに行って朝5時まで踊りまくるだけでお酒なんか一滴も飲んでなかったんですが、父は「娘が不良になった」と。それで急に「学校いけ」とか俗なことを言い出して。

慎太郎 俗というか、世間的にまともなことをね。

ゆみこ そういうものをバサバサと切ってきた人なのに、と私はそれも嫌で反発したんです。今思えば、立川談志の人生において、そこまで自分に反抗するヤツっていなかったはず。なのにまだ15、6の実の娘がそうなって、パパもパニック状態だったと思う。しまいには「殺せー!」、「子どもを殺す親があるか!」となって、げんこつでボコボコに殴られました。

慎太郎 さんざん人にも「子どもは殴るもんじゃない」と言っていたのにね。

ゆみこ でも直後に冷静になったみたいで、「なぜオレはここまでコイツに腹が立つのか」と分析が始まって、「そうか、オレにそっくりだからだ」と気づくの。それからは何も言わなくなりましたね。慎ちゃんは? パパ好きだった?

「落語家になっていなかったら」

慎太郎 正直、どちらかといえば苦手だったね。

ゆみこ 「しんたろう、しんたろう」っていじくりまわして、パパなりに子煩悩ではあるのよね。

慎太郎 優しいのは分かっているから余計、イラッとするんだよ(笑)。例えば僕を黄金時代のジャイアンツのベンチに連れて行ってくれたことがあって。藤田(元司)監督・王(貞治)助監督の頃で、「写真撮ってやるから王のところに行ってこい」なんて言うんだけど、恥ずかしくて行けるわけがない。一事が万事、そんな調子でしたね。

ゆみこ ラーメンの上前はねられてたよね。土曜日で小学校が半ドンのとき。

慎太郎 学校から帰ると母がインスタントラーメンを作ってくれて、いざ食べようとしたら……。

ゆみこ それまで奥で寝てたくせに、急にゴトゴトゴトって起きてきて、「一口よこしな!」ってガバッと食べちゃう。

慎太郎 (顔をしかめて)あれは本当に嫌だった。最悪。だから僕の子どもには、絶対にしないもん。

ゆみこ そのくせ自分の料理は私たちにくれないのよねえ。ああ見えて料理を作るのは好きなんですよ。

慎太郎 ワンタンとか自分でせっせとこねてね。

ゆみこ 今にして思えば、粉を練るっていう単純作業に癒されていたんだろうな。そうしている間は脳が思考から解放されるから。だからパパのワンタンは絶品だけど、自分だけで「うめぇ、うめぇ」って食べちゃう。よっぽど機嫌がいいときだけ、「ちょっと食うか?」って。

慎太郎 お弟子さんたちは「談志カレー」の洗礼を受けてるよね。父がカレーを作ると賞味期限の怪しいものを、「隠し味だ」って何でも入れちゃう。

ゆみこ 闇鍋よね。談春さんはチーズケーキ入りのカレーを出されて、「もとは小麦粉とチーズだ。あわないわけがないだろう」。実際、美味しかったとか。

慎太郎 メチャクチャなんだけど、意外と理にかなっているんだよね。でも「パパ、これ何?」って聞くとすごい怒る。食い物なんだから食ってから聞け、と。あるとき、僕もカレーを出されて、一口食べたら食感がクチャッとしてる。飲み込んでから「今、クチャッとしたんだけど何?」と聞いたら、「たぶん干し柿だ」って。

ゆみこ アハハ。でもカレーにチャツネ(果物やハーブなどを煮込んだインドの調味料)入れるからね。

慎太郎 そう。理屈は合ってる。本人は「落語家になってなかったら、コックになってた」と言ってた。

ゆみこ 海外の落語会なんかに行くと、いろんなもの買って帰るんです。メキシコではタコス用のトルティーヤとか、ベトナムでは生春巻き用のライスペーパーとか。それで現地の料理を再現するんだけど、我流だからね。ライスペーパーも本当はお湯で戻して使うのに、そのままで「なんか固ぇな」なんて霧吹きで水をバシャバシャかけて。

慎太郎 生春巻きなのに、パキンパキンで(笑)。

ゆみこ あとはパーティー会場で出されたお刺身のツマを持って帰ってきて、翌日味噌を溶いて味噌汁にすれば、出汁もいらず大根も切らないですむとかね。

料理好きで、日記に調味料までメモしていた

慎太郎 絶対にムダにしない。それは何でもそう。

ゆみこ ホテルに泊まったら、アメニティは全部持ち帰ってくる。シャワーキャップなんて髪染めるとき以外使い途ないのにと思っていたら、あるとき、その中でグレープフルーツの皮を剥けば、汁も飛ばないし、そのまま捨てられると「発見」したのね。

慎太郎 それからは駅のベンチとか映画の試写会場とかで、よくやってたよね。

ゆみこ 試写会場でプーンと柑橘系の匂いがしたら「あ、談志さん、来てるな」って言われたほど。私といるときにそれやり始めたら、少し離れたもん。親子と思われたくなくて。

慎太郎 本人は「どうだ、このスゴさが分かるか」と大得意なんだよね。わからないヤツは田舎者だ、って。

ゆみこ 亡くなる直前、もう声を出せなくなっていたパパに「エコって何ですか」って筆談で訊かれて、その時はうまく答えられなかったけど、今なら「あなたがエコです」って伝えたかったな。何でも無駄にすることが本当に嫌いだったから。

慎太郎 その筆談の紙もチラシの裏だったし。

ゆみこ ドケチっていう言い方もあるけどね(笑)。

酸素マスクをつけられても

――「ノンくん」こと妻の則子さんとは本当に夫婦仲がよかったそうですね。

ゆみこ 最期は、娘の目からみても、夫婦とはいえここまで思いやれるのか、と。ただトータルの夫婦仲というと……どうなんだろう、まあ悪くはなかったか(笑)。パパは50過ぎから晩年まで途中色々ありつつ、母と二人で根津のマンションで暮らしました。下町で近くに銭湯もあって、ちょうどよかったんでしょうね。

湯好きだった談志(享年75)

慎太郎 ケンカして別居している時期もあったし、どこを切り取るかだよね。

ゆみこ 落語家なんで旅も多いし、基本的に家にいないんです。家にいたらいたで、ちらかすし、うるさいし、手がかかる。だから家族にとってはいない方が快適だったのも確かです。

――談志師匠は61歳のときに食道がんを摘出し、2008年、72歳のときに最初の喉頭がんが発覚。治療・休養を経て、10年4月に「復帰会見」をしますが、この頃にはかなり悪くなっていたんですか?

ゆみこ 実はその前に、うつっぽい時期があったんです。ずーっと「死にたい、死にたい」と言うので、母なんかも「殺してあげて自分が刑務所に入ったほうがいいんじゃないか」と真剣に考えたほど。そこから何とか落語をやれるところまで立ち直って、高座に復帰して会見もしたけど――。

慎太郎 復帰会見なのに開口一番「もうダメですね。高座の声が出ません」って、引退会見みたいになっちゃった。

ゆみこ うつになって死にたい、と言い出したのも、もとをただせば老いへの恐怖だよね。本人はよく「精神と肉体のアンバランス」と言ってましたが、どんなに面白い落語を作っても、それを演じ切るだけの体力や声がついてこないもどかしさ――。

慎太郎 それでも会見から4カ月後に爆笑問題さんと共演するイベントの大トリで久しぶりに落語をやって。そのときは、カサカサ声でも演(や)りようはあるんじゃないか、と模索しているような感じもあったよ。

ゆみこ そうこうしているうちに11月に主治医の先生に母と呼ばれて、「喉頭がんが再発してます。余命1年です」と告げられて。本当に翌年11月21日に亡くなった。あれ、パパは余命知ってたのかな?

慎太郎 僕は言ってない。医師から声帯摘出を薦められても「(噺家としての)プライドが許さない」と拒否したけど、やっぱり声がカサカサしていたから……。

ゆみこ あんなに頭がよくて勘の鋭い人が気づかないわけないよね。最後の高座になった『蜘蛛駕籠』(11年3月6日の一門会)も、出す声より引きの息の方をマイクが拾っちゃう状態で、お客さんもみんな涙、涙で。まるで落語とお別れしているみたいで。

慎太郎 ただ声を失うまでは、完全に落語にお別れはしてなかったと思う。

ゆみこ 声を失ったのは、最後の高座の後、がんが進んで窒息の恐れがあったので、気道確保の手術をすることになって。手術室に入る前、ベッドの上で酸素マスクをつけられたパパが何か「へぇ、へぇ」言ってるなと思ったら、慎ちゃんが「へぇ駕籠、って言ってる。『蜘蛛駕籠』演ってるんだ」って教えてくれて。その姿がもういじらしくて……。手術後に、全身麻酔から覚めたパパが真っ先にホワイトボードに書いたのが〈声帯全部とったのか〉。

慎太郎 とってなかったんだけどね。でも結局この後、本当に声を失うことになっちゃった。

ゆみこ 喉に穴を開けることを説明したときは、「オレらしくていいや」と潔く言ってくれてたんだけど、結果的にパパを騙したみたいになっちゃった。それから亡くなるまで、病院にいく度に主治医の先生に〈私の声を返してください〉と書き続けたからね。先生もたまったもんじゃなかっただろうに、必ず「申し訳ないですが、あの高座の談志師匠の声は無理です」と返してくれて。でもさ、私たちに「で、オレはいつ死ぬんだ」とは言わなかったよね。

慎太郎 むしろ、生きる気満々に見えたよね。

ゆみこ それは私たちへの「最後の優しさ」だったかもしれないね。

慎太郎 うん。そのうち、筆談の字もだんだん読めなくなってきて……。

ゆみこ 志らくさんがお見舞いに来てくれたときに、パパが何か書いたんだって。志らくさんは〈人生こんなもんだ〉って解読して、額に入れて飾ってたの。それを私に見せてくれたんだけど、よく見たら〈ラジカセ持ってこい〉って書いてあるのよ(笑)。そう伝えたら「はぁ~」って(項垂れる)。

慎太郎 お弟子さんたちを最期に会わせられなかったのは、悪かったな、という思いは今もあります。亡くなる半年前の春頃に一回会わせようとしたら、段取りの段階でマスコミから問い合わせがあって、これはダメだな、と。その後、夏に銀座のバー「美弥」でお弟子さんに会ってもらったのが最後になってしまった。

ゆみこ マスコミには隠したかったよね。最後、やせ衰えた姿を見せたくなかった。ただ本人は、何でも隠さずに「どうだ」って見せたい人だったから。

慎太郎 それは僕も迷った。だからNHKラジオの『新・話の泉』に出たいって言い出したときは、「やっぱりそうきたかぁー」とドキッとしたもん。でも「ラジオだから声出ないとムリだよ」と言ったら、筆談で〈いるだけでいい〉。さらには〈打ち上げもダメ?〉。このときは正直参った。

ゆみこ でもさ、没後10年経ってもまだこういうお声がかかったり、17歳の頃の日記(『談志の日記1953 17歳の青春』)が出版されたり、有難いよね。

 パパがエラいのは、会った人みんなに思い出を残している。そういう意味ではお弟子さんにも私たち子どもにも、本当に親切な人だったんじゃないかな。

慎太郎 僕は昔から「お父さんの跡を継がないの」と言われ続けてきたけど、正直落語家になることに興味もなかったし、父自身も「やってみろ」とも一切言わなかった。けれど今、こうやって父の遺したものを世に出していくのも、ある意味では「立川談志」という家業を継いだことになるのかなと最近思うようになったんです。談志を令和という時代に繋ぐとどうなるのか、という景色を見てみたい。

ゆみこ でももういないはずなのに、なんか今も「うるさい」んだよねえ。

慎太郎 声が聞こえるわけじゃないけどね。それだけ強烈に「立川談志」を植え付けられたんだよ(笑)。

(構成 伊藤秀倫)

 

source : 週刊文春 2021年12月30日・2022年1月6日号

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