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松田聖子 神田沙也加「愛憎」全記録

「週刊文春」編集部

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「心も体も健康であれば……」。母は娘の幸せをそう願っていた。一方で母がスターを演じるほど、恋をするほど、娘の心は離れていく。そして唐突に訪れたのは、永遠の別れだった。同じ道を歩んだ母娘、35年の物語――。

 

▶︎娘は医者に「同じ苦労はさせたくない」芸能界入り反対

▶︎「郷ひろみと…」沙也加デビュー時に“告白本”準備

▶︎娘の恋人を厳しく査定「唯一認めた東京藝大卒」

▶︎絶縁前年に母と娘で韓国“最後の家族旅行”

▶︎「正輝じゃ〜ん」母と断絶で娘は父と急接近

▶︎密葬で初めて対面した神田正輝と歯科大教授夫

▶︎「ねぇ、たぁ…」沙也加が恋人俳優に涙の言葉

 1999年の夏、波多野法子は2番目の夫が運転する車で、ロサンゼルスのビバリーヒルズにある高級ホテルに乗り付けた。

 スイートルームへ向かうと、待っていたのは出版社の幹部二人とライターの三人。彼らは、彼女から、37年の人生、中でもマスコミを賑わせてきた“男性遍歴”を全て聞き出そうと意気込んでいたのだ。

 前年の98年には、郷ひろみが結婚生活の破綻を綴った「ダディ」が100万部を超えるベストセラーとなっていた。彼女が郷との関係をはじめ自らの男性遍歴を明かせば、それ以上のヒットは間違いないだろう。

 そんな出版社幹部らに対し、法子は当初、インタビューに応じるべきか逡巡する様子を見せていた。だが、20分に及ぶ説得を受けると、“法子”は瞬時に“聖子”へとスイッチを切り替える。97年に最初の夫と離婚し、2000年にデビュー20周年を控えていた彼女は意を決してこう告げた。

「私は、私の人生の全てを喋ります」

今から約15年前、関係が良好だった頃の2人

 ロスに呼び寄せ、再び一緒に暮らし始めた娘の沙也加は、思春期真っ盛りの12歳。米短編映画の撮影で女優デビューを果たしたばかりだった。

 松田聖子(59)にとって、2021年は“新境地”の1年になるはずだった。デビュー40周年イヤーの20年は、コロナ禍で記念の全国ツアーが延期。恒例のディナーショーも都内1カ所でしか開催できず、「14億円以上の減収」(音楽関係者)だったとされる。

 迎えた21年、聖子は往年のファンを歓喜させる活動を精力的に続けた。4月には、セルフカバー曲「青い珊瑚礁〜Blue Lagoon〜」で実に41年ぶりの“聖子ちゃんカット”を披露。6月からは1年越しの全国ツアーをスタートさせる。11月には、初の監督作となるホラー映画「フォークロア2 あの風が吹いた日」が上映されるなど新たな挑戦も行っていた。

 そんな1年の締め括りに予定していたのが、NHK紅白歌合戦への出場だった。

 ところが、年の瀬、聖子の元には、あまりに残酷な知らせが届く。12月18日、長らく“絶縁状態”に陥っていた娘・神田沙也加が札幌のホテルの高層階から転落し、35年の短い生涯を終えたのだ。

密葬を終え、取材に応じる聖子と正輝

 現地に急行した聖子は21日、密葬に参列。沙也加の父・神田正輝(71)と報道陣の取材に応じ、「お寒い中、有難うございます」と頭を下げた。密葬では、元夫・神田と、歯科大学教授の現夫・河奈裕正氏が初めて対面したという。

アイドル、妻、母、そして…

「紅白出演について聖子は当初、『娘のためにしっかり歌いたい』と前向きでしたが、最終的には辞退しました」(スポーツ紙記者)

 様々な葛藤と苦悩を抱えながら、最後まで幸せを掴もうとしていた沙也加。聖子にとって、彼女は誰より愛を注ぎ、それでも断絶してしまった、たった一人の娘だった――。

 今から35年前。86年10月1日未明、聖子は帝王切開で、2630グラムの女児を産んだ。候補の中から、画数を考えて付けた名前は「沙也加」。入院する個室の前では、神田の所属事務所・石原プロのスタッフ5、6名が目を光らせていたという。

「前年の85年に郷との涙の破局会見があり、そこから急転直下、僅か3カ月後に神田と結婚を決め、世間を仰天させた。その余韻も冷めやらぬ中で、第1子が誕生してメディアも大騒ぎでした」(芸能ジャーナリスト・二田一比古氏)

 聖子の退院時には、病院前に3000人のファンが集まり、隣接する法政大学の校舎には、学生の手で〈沙也加ちゃん おめでとう〉の垂れ幕も掲げられた。

 間もなく聖子は成城の新居マンションから、育児への支援を得るため、車で5分ほどの砧にある両親の家へ引っ越し。神田は“通い婚”となり、砧への足は次第に遠のいていく。残ったのは別居という現実だった。

 アイドル、妻、母。夢を実現していく聖子が次に目指したのが、悲願の全米デビューだ。

 約2年半後の89年5月には、所属していたサンミュージックから独立。個人事務所「ファンティック」を設立する。そうして足場を固め、90年、全米デビューを果たした。

 しかし――。

「“ジャパンマネー”を背景に、プロデューサーこそ超大物が付きましたが、期待外れのセールスでした」(レコード会社関係者)

 その矢先、私生活では近藤真彦との“ニューヨーク密会”を報じられる。

「フライデーが89年2月、聖子が宿泊するホテルのバーで、ピッタリと肩を寄せ合って過ごす姿を撮ったのです。近藤は当時、中森明菜と交際していた。聖子の“略奪愛”と物議を醸しました」(芸能記者)

 全米進出失敗と、男性スキャンダル。「幼い沙也加を日本に置いて」という枕詞がセットになれば、批判は鋭さを増していく。この頃から、神田との関係悪化も伝えられた。だが聖子は家庭円満をアピールするかのように、当時5歳の沙也加のエピソードをたびたび引き合いに出している。

〈最近、成長が著しくてね、主人も私もビックリすることがあるんですよ。(略)私が歌番組に出ると、必ず娘は見てるから、「今日はドレスがとてもかわいかったわ」とか、「今日は歌にちょっと元気がなかったみたいよ、どうしたの」って(笑)〉(「JUNON」92年3月号)

日枝神社で沙也加のお宮参り

 94年のコンサートでは、客席にいる神田と沙也加を紹介し、小学生の沙也加がステージの母に両手を振って応える一幕もあった。娘にとっては「スターの母」を誇る瞬間だったが、母にとっては世間に「普通の母」であることを誇る瞬間だった。

 だが、97年1月、神田との離婚を発表。ただ、娘の苗字を変えたくなかった聖子は新しく戸籍を作り、神田姓のまま沙也加を育てることを決断した。

 当の聖子は時を置かず、別の苗字へ変わる。99年、沙也加の通っていた歯科医院で歯科医の波多野浩之氏と出会い、交際2カ月で「ビビビ婚」を果たすのだ。同時に2度目の全米挑戦のため、ロスへ拠点を移したが、沙也加は一人、日本に残って寄宿舎のある中学に進学する。

 当時の心境を沙也加は自著「Dollygirl」(宝島社)でこう綴っている。

「会見の直前、私のほうから」

〈継父と一緒に行くことが当時の私にはすごく抵抗があったんですね。(略)色々考えた結果、寮に入ることを決心しました。でも、寮ではすさまじいいじめが待っていて。寮生活でのいじめって逃げ場がない〉

 いじめ問題もあり、沙也加は母と継父が暮らすロスに渡り、現地の中学に通うことになる。聖子がコンサートツアーなどで不在にする時は一緒に帰国し、交換留学制度のある日本の中学に通う特殊な環境だった。

 松田聖子の娘として生まれたがゆえに、普通の学校生活を送れなかった沙也加。母としても、そんな娘の将来には頭を悩ませてきた。

〈私自身この世界に長くいて、身をもって大変さを経験していますから、とても娘に同じ苦労をさせたくないと思いました〉(「25ans」07年11月号)

 では、どんな職業に就いて欲しかったのか。そのことを取材で問われると、こう答えていた。

〈ドクターかな。人の痛みをわかる人になってほしいから〉(「JUNON」00年9月号)

 だが、娘が選んだのは母と同じ道だった。小学校の時から隠れてオーディションに応募。本名では聖子の娘とバレるからと、仮名を使う念の入れようだった。

「そのことを知った聖子は『根性あるな』と語っていました。自分も親の大反対を押し切って上京した経緯もあり、最後は娘の意欲を認めたのです。沙也加のオーディションのために、相手役を務めてホン読みの練習に付き合うようになりました」(芸能プロ関係者)

 沙也加は99年7月、ロスで短編映画のオーディションに挑戦し、主人公の同級生役を射止めた。この彼女のデビュー作は後に、カンヌ国際映画祭で短編パルムドールを受賞する。

 そんな折、聖子は――。

 冒頭のように、自身のデビュー20周年に向けて、再び派手なスポットライトを浴びようと決意していた。そのタイミングで「私の人生の全てを喋る」と宣言していたのだ。

 ロスのホテルで彼女を待っていたのは、郷の告白本「ダディ」を出版した幻冬舎の見城徹社長と担当編集者、そしてライターの佐藤秋美氏の三人だった。

 佐藤氏が振り返る。

「4日間、20時間以上にわたってインタビューを行いました。聖子さんは何でも喋ってくれた。『それはNGです』という点は一切ありませんでした」

 その1つが、「郷との破局」だ。それまで郷の両親が家庭に入るのを望んでいたことなどが、原因として報じられてきた。ところが聖子の口から明かされたのは、こんな言葉だった。

「あの破局会見の直前、私のほうから、神田さんとの関係を郷さんに告白しました。そして、私たちは同じ部屋で泣きながら別れを決めたのです」

 かたや神田とは当初から性格が合わず、「結婚している感じがしなかった」と漏らしたという。さらにマスコミが報じてきた田原俊彦、近藤真彦、外国人ダンサーらとの交際から、自らの初体験に至るまで赤裸々に語り尽くしたのだった。

「沙也加さんについては出産の話をした程度で……母としての愛情を強く持つ一方で、思春期の娘がいるからといって、自らの“男遍歴”を明かすことへの躊躇(ためら)いは一切ないように感じました」(前出・佐藤氏)

 インタビューを基に原稿を完成させた佐藤氏。ゲラの状態になり、出版は目前だった。ところが、

「中身があまりに過激だったのです。全米デビューにあたり、米レコード業界の大物から肉体関係を迫られたことも告白するなど、幻冬舎側は法的リスクが高いと判断した。聖子の事務所も『見送りが賢明』と結論付けました」(聖子の知人)

聖子が築いた10億超の不動産

 幻冬舎社長の見城氏を直撃した。

「ロスで聖子さんをインタビューしたのは事実です。ゲラにもなった。ただ、聖子さんサイドとの話し合いの中で、お互い納得した上で出版しないこととなりました。内容は言えませんが、出版すれば200万部は売れたと思います」

 ミレニアムイヤーの“告白本”は封印され、2度目の全米挑戦も不発に終わってしまう。波多野氏との結婚生活も00年12月、わずか2年で幕を閉じた。

 しかし、聖子はそこで終わらない。

 彼女の活動に新たに加わったのが、「娘のプロデューサー業」だ。母娘のタッグでの活動を活発化させていく。00年11月、沙也加とのデュエット曲を収録したベストアルバム「LOVE」をリリース。沙也加も「SAYAKA」名義での芸能活動を日本で本格スタートさせ、02年にはCDデビューも果たした。

「私が娘を守っていく」

 聖子はそう公言し、“ステージママ”ぶりを遺憾なく発揮していった。

 他方、その状況を無邪気に認めるほど、高校生になった沙也加は子どもではなかった。過大評価されているという意識は、自らへの過小評価に繋がっていく。

 17歳だった04年、オーディションの末に、初舞台のミュージカル「INTO THE WOODS」に出演した沙也加。同作を演出した宮本亞門氏は、彼女の言葉をこう振り返っている。

〈「亞門さん、正直に教えてください。私の両親が有名人だったから、この役に選んでくれたんじゃないですか?」/それを聞いて、ハッとしましたね。実力で選ばれたと思っていないと〉(「文藝春秋」22年2月号)

 この舞台での経験を活かし、沙也加は06年12月、本名の「神田沙也加」名義でミュージカル俳優として針路を定めていく。06年の舞台で共演した大地真央を慕い、彼女が約20年間、主演を務めた「マイ・フェア・レディ」に出演することを自らの目標に掲げた。

「沙也加はこの頃から、芸能界のスターである母の存在を意識しながらも自分で道を切り拓こうと苦闘してきた。一方、聖子はスターとして奔放に振る舞いつつも、そんな娘を一人の母として心配してきたのです」(母娘の知人)

 同時に、母娘の間では喧嘩が絶えなくなっていく。大きな原因は「恋愛」だった。二度の離婚や度重なる不倫疑惑を経てなお、〈(恋愛は)絶対したいです。ほんとに恋したい〉(「コスモポリタン」05年5月号)と語っていた聖子。だが母としては、娘の恋愛に厳しかった。

「共演を機に恋人になった若手俳優のことも、『あの子は品がないからダメ』とバツ印をつけた。沙也加は『私が連れてくる人はママに全否定される』とコボしていました。10代後半にはひと回り年上のギタリストと交際し、『結婚する』と言い出しましたが、『あり得ない』と聖子は猛反対した。母の奔放すぎる恋愛を見てきた沙也加は『なんでママだけ』『ママに言う資格無い』と強く反発。自宅の窓ガラスが割れる大喧嘩で、警察が出動する騒ぎになったのです」(同前)

17年紅白リハーサルで郷ひろみと

 そんな中で、聖子が唯一認めた恋人がいる。11年頃から、数年間交際していた3歳年上のミュージカル俳優・田代万里生だった。

 沙也加の友人が語る。

「それまで沙也加の恋人は、稼ぎの乏しい舞台俳優やバンドマンが多かった。それに比べ、田代は東京藝大卒で、父親もテノール歌手と毛並みが抜群です。見た目も礼儀も“ちゃんとしている”点を聖子さんが気に入っていました。沙也加の家で同棲し、彼も自らの両親に沙也加を会わせていたりした。ただ、最後は喧嘩が続き、14年までに破局を迎えてしまいました」

 聖子が娘の恋人を“厳しく査定”してきた背景には、もう一つ理由がある。

 築き上げた財産で次々と土地やマンションを買い進めてきた聖子。かつて暮らした成城の大豪邸や19年に購入したマンション、地元のクリニックに貸している砧の土地建物など、母や事務所名義の物件を含めると、現在所有する不動産の総額は10億円を下らない。

「莫大な財産の多くを将来的に相続するのは、一人娘の沙也加。聖子が娘の交際相手に厳しかったのは、人生を賭けて築き上げた財産を分け与える資格があるか、見極めていたのでしょう」(前出・聖子の知人)

 恋愛を巡り、衝突を重ねてきた母娘だが、それでも血を分けた二人。そのたびに必ず関係は修復していた。とりわけ沙也加が田代と交際していた11年頃は「良好だった」(同前)という。

 実際、11年末の紅白歌合戦では、母娘で「上を向いて歩こう」をデュエット。二人は「皆で一緒に歌えるように」との想いでこの曲を選んだという。聖子は娘との初のテレビ共演に涙を流した。

沙也加に電話を拒まれた聖子

 その傍ら、「絶対恋愛する」と公言していた聖子は翌12年6月、50歳で三度目の結婚を果たす。それが現在の夫、河奈氏だ。

「沙也加が聖子さんのライブ会場で雑誌を読んでいた時のことです。そこに欲しい指輪が載っていて、ページの角を折っていた。それに気付いた河奈さんが後でプレゼントしていたことがありました。“新しい家族”になろうと努力していたのでしょう」(沙也加の恩人)

 ただ、三たび女の幸せを優先した母に、娘は態度を硬化させていく。13年8月には、聖子と沙也加、河奈氏は韓国旅行に向かったが、結果的に、これが母娘にとって“最後の家族旅行”になってしまう。

「その頃、三人での食事の場では、聖子は『さや、これ食べる?』としきりに気を遣っていたそうです。娘に色々と話題を振る二人に対し、沙也加はほとんど口を開かなかったと聞きました」(前出・母娘の知人)

 そして翌14年6月――。

 聖子と沙也加の亀裂は決定的なものになった。

「聖子は元マネージャーで、何度も不倫疑惑を報じられた男性・K氏と、新事務所『melody fair』を立ち上げて、沙也加も所属していたファンティックを飛び出したのです。ファンティックは聖子の兄・蒲池光久氏が代表を務め、親族らが役員に名を連ねる“ファミリー会社”。そこを捨ててまで、男性を選ぶという身勝手な振る舞いに、沙也加はついに愛想を尽かしたのです」(別のスポーツ紙記者)

 こうして実の母を拒絶するようになった沙也加。その一方で、急接近を図ったのが、実の父だ。

「神田さんは、聖子が再婚、再々婚をして以降、気を遣って沙也加には、めったに会うことはありませんでした。それでも、娘の舞台には必ず花を出すなど、絶えず気に掛けていた。それが沙也加のほうから頻繁に連絡を取るようになったのです」(前出・沙也加の友人)

 実は15年には、神田はお忍びで娘のライブを鑑賞していた。その姿を見つけた沙也加は、

「正輝じゃ〜ん」

 と喜んでいたという。

「楽屋で父と娘が話している姿を見て、聖子の母の一子さんが涙を流していたのを覚えています」(ライブスタッフ)

 母の軛(くびき)から放たれ、仕事面でも映画「アナと雪の女王」のアナ役でブレイクを遂げた沙也加。30歳だった17年4月、9歳年上の俳優・村田充と結婚する。ハワイの挙式では、神田と共にバージンロードを歩いた。結婚することを知った聖子も沙也加に電話をかけたものの、一度も応答することはなかったという。

村田充と沙也加の結婚パーティー

「聖子はmelody fairをK氏と立ち上げていたにもかかわらず、沙也加側に『ファンティックの名前を使わないで』とクレームを入れたのです。結婚を知らせない娘への“嫌がらせ”のようでした。加えて、それまで使っていた成城のオフィスまで明け渡すよう要求した。結局、沙也加は新事務所『ローブ』を設立し、翌18年、駅を挟んで反対側への転居を余儀なくされます」(前出・沙也加の恩人)

 ただ、その沙也加の結婚も19年夏、2年余りで終焉を迎える。村田は〈子どもが欲しかった私と、前向きになれなかった彼女とで折り合いがつかず(略)離婚に双方合意〉したとブログで明かしたのだった。

雪が解けないまま、娘と別れを

 そして、聖子が1年越しとなる40周年イヤーに臨んだ21年。沙也加は将来の結婚を見据えた相手と出会う。同年8月からの舞台「王家の紋章」で共演した俳優の前山剛久(たかひさ)(30)だ。二人は意気投合し、10月から交際をスタート。かつて出演を目標に掲げた「マイ・フェア・レディ」で、再び共演を果たす。

恋人・前山とは「王家の紋章」で共演(前山のツイッターより)

 沙也加の親友が言う。

「35歳になっていた沙也加は、子どもを産みたいという想いを強く抱くようになっていました。すぐに同棲を提案し、結婚へ突き進もうとした。特殊な芸能一家に育った彼女は、自らも一度離婚していますが、“普通の家庭”を築いてみたいという想いが人一倍強かったのです。その過程で、精神的に不安定な面がある彼女は、前山さんにますます依存するようになっていく。次第に結婚や出産について、前山さんとの間で考えにズレが生じるようになってしまいました」

 二人の間で口論が絶えなくなり、言葉も過激なものになっていく。12月に入り、沙也加に冷たい姿勢を見せ始めた前山。沙也加は涙声で、縋(すが)るように恋人の呼び名を繰り返した。

「だって『好き』って言ったから付いてきたんだよ。ねぇ、たぁ……」

 しばし沈黙が続き、再び沙也加はこう訴えた。

「たぁ、ねぇ。『大好きだ』って、『こんなに合う人いない』って言ったから付いてきたんだよ」

 しかし、恋人からはただ一言、「知らない」と突き放されるのだった。

 聖子はその頃、母としての自分は消したように、20年に軒並み中止となったディナーショーを開いている。12月15日から19日にかけては「グランドプリンスホテル新高輪」で、23日からは「ホテルニューオータニ大阪」に舞台を移すはずだった。だが、19日は中止となり、関西のファン、そして全国の紅白視聴者に向けて“松田聖子”を演じることはなかった。

「聖子は、沙也加と前山の交際については全く知らなかったといいます。今はたった一人の娘を失ったショックから立ち直っていません」(前出・聖子の知人)

 聖子の事務所に“告白本”の事実関係や沙也加への想いなどを尋ねたが、期日までに回答はなかった。

 聖子はかつて、一人の母として、沙也加への願いをこう語っていた。

〈究極には、心身共に健康であってほしいという、それだけなんです。心も体も健康であってくれれば、それが一番の親孝行〉(「FRaU」06年8月号)

 雪が解けないまま、愛する娘との永遠の別れを迎えた母。あなたに逢いたくても、もう逢えない――。

source : 週刊文春 2022年1月20日号

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