(ウー・ウェン 料理研究家。1963(昭和38)年、中国・北京生まれ。90年に来日、97年にウー・ウェン クッキングサロン開設。主な著書に『料理の意味とその手立て』『ウー・ウェンの100gで作る北京小麦粉料理』『これでいい ウー・ウェンのありのままの一皿』『北京の台所、東京の台所』など。)
文化大革命が起こったのは、1966年、私が3歳のときでした。うちは両親とも気象学者、つまり文化人だったので大変な思いをしました。だから、子どもの頃のいい思い出ってほとんどないの。家族はバラバラになるし、学校では「悪い人の子ども」といじめられるし。ただ、父母から注がれる愛情は120パーセントでした。
特別な材料や調味料は使わない、強い火力も必要ない。なのに、なぜか味わい深い中国料理に仕上がる。そんなレシピで男性にも多くのファンを持つ北京生まれの料理研究家ウー・ウェンさん(本名の雯竹(ウェンジュウ)の雯には美しい模様の雲、彩雲などの意味があるとか。気象学者の両親の愛がこもった命名だ)。
中華人民共和国が成立したのは1949年10月1日のことですが、それ以降は、ご存じのように、全部国が統一管理するようになったわけです。住まいも、自分で家を買うなんてことはできなくて、会社から支給される社宅でした。社宅は、結婚したら1LDK、子どもが生まれたら2LDKというふうに、家族の変化、また、会社の地位などに応じて支給されるため、社宅内で何度か引っ越すことになります。社宅はいってみれば、公団住宅のような感じで、何棟も連なっているんです。
物心ついたときに住んでいたのは、北京の2LDKの社宅マンションでした。2LDKといっても、一つの部屋が結構広かった。天井も高くて、のびのびしていたように思います。冬の北京はものすごく寒いけど、部屋の中はセントラルヒーティングでぬくぬく。11月から暖房が始まって3月まで続きます。一定の温度に保たれるからとても快適でした。
文化大革命で「下放」の憂き目に。それでも両親が誇りだった
ウーさんは幼少期のいっときを、母の仕事の関係で、母と一緒に祖父母と過ごす。祖父母は、北京の伝統建築である四合院(東西南北に4棟を配し、中央の中庭を囲む様式)に住んでいた。祖父は代々続く絹織物店の主で、土地持ちだったが、建国の際、経営権も土地も国に召し上げられていた。
祖父はドイツに留学したこともあって、家にはドイツの陶製の人形とか、時計がいくつも飾ってありました。祖母は清朝末期の生まれで、纏足(てんそく)をしていました。纏足最後の世代です。纏足は上流階級の子女の、ある意味、富の象徴でもあったんです。身の回りの世話をしてくれる人がいないと暮らせないですからね。学校は行ったことがなかったけれど、頭のいい人でした。
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source : 週刊文春 2022年3月24日号